読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

苦海浄土

「昭和二十八年末に公式第一号患者が出てからさえ、すでに六年を経、右の状態は、放置されていた。」



「八幡大橋付近から遠浅に潮が引けば、水俣川川口からひろがる干潟の貝は口をあけて死滅し、貝の腐肉の臭気と排水口の異臭とのいりまざった臭いが、海岸一面に漂っていた。


私の村の日窒従業員たちは、八幡排水口が設置される直前から、「排水口ば、こっち持ってくるけんね、こっちの海もあぶなか。もう海にゃゆくな。会社の試験でも、猫は、ごろごろ死によるぞ」と、家族たちに、「秘密ぞ」と前置きしていいつけたが、


秘密というものは伝わり易いものであり、それは村中に知れ渡ってしまったが、魚や貝類の死滅するのを目の前にして、潮干狩り好きの農民たちも、これでぴたりと、盆の潮干狩りをやめてしまった。

烏まで、目をあけたまま、海辺で死につつあったから。」


「理想的な静寂の中で、渡邉さんの次に進み出た小柄な中年の主婦、中岡さつきさんがとぎれがちに読み上げた言葉は、きわめて印象的であった。大要次のごとくである。
「……国会議員の、お父さま、お母さま(議員団の中に紅一点の堤ツルヨ議員が交っていた)わたくしどもは、かねがね、あなたさま方を、国のお父さま、お母さまと思っております。

ふだんなら、おめにかかることもできないわたくしたちですのに、ここにこうして陳情申し上げることができるのは光栄であります。

……子供を、水俣病でなくし、……夫は魚をとることもできず、獲っても買って下さる方もおらず、泥棒をするわけにもゆかず、身の不運とあきらめ、がまんしてきましたが、私たちの生活は、もうこれ以上こらえられないところにきました。わたくしどもは、もう誰も信頼することはできません……


でも、国会議員の皆様方が来てくださいましたからは、もう万人力でございます。皆様方のお慈悲で、どうか、わたくしたちを、お助けくださいませ……」


彼女の言葉に幾度もうなづきながら、外して鉢巻を目に当てている老漁夫たちがみられた。」



「なるべく克明に、私はこの日のことを思い出さねばならない。」



「退役海軍中将上がりのわが水俣市四代目の市長中村止氏のこれに対する応答ぶりは、陽焼けした頬をけずり、まなこ落ち窪ませている漁民たちや、まして、この会見のさなかにも、この二階会議室の隣の水俣病特別病棟内で、身体の自由を失い、押さえがたい全身痙攣のためベッドから転がり落ち、

発語不能となり、咽喉を絞り唇を動かしても、末期に至るまでついに、人語を以てその胸中を洩らすことかなわなかった人びとが、真新しい病室の壁を爪でかきむしり、<犬吠ようの>おめき声を発していたそのこころを代弁するには、はなはだ心もとなかった。」


〇ここを読みながら、「日本はなぜ敗れるのか」の中に出てきた、小松氏の
「将校は社会人としては零に近い」という言葉を思い出しました。
何故、そんなリーダーらしからぬ人がトップに立つことになるのか。

ふと思ったのですが、私たちの社会にはリーダーになる訓練のシステム、リーダーを育てるシステムがないのでは?
今も、地方都市では、政治の場で、立候補する人が居なくて困っているようです。

恥知らずで名誉欲ばかりの人が、政治家や行政のリーダーになるのでは、困るのですが。



「たまがって現地さね行たてみる。現地でもそげんしよる。もちろん人間もなっとる。こらやっぱり魚ばい、ど誰でんいちばんにおもうたですな。

漁師の家ばっかりでっしょが。」



「厚生省に行ってみると、「魚の有毒化したのを食わんようにするのは_大体三十一年には魚を食うてなるとわかっとったですから_うちの仕事ですが、それから先の魚の販売のことは、農林省の管轄です」という。

じゃ、こういう毒魚、いや何かしらんが、工場があって汚水を流すから、流れんごとしてくれ、取り締まってくれと、厚生省の環境衛生あたりで言えば、「それはもう通産省の管轄だ」という。

結局どしこ言っても、これは農林省、これは通産省、たとえば、水俣病の研究費のことをきけば、それは文部省という工合いで、いざ貰う先は大蔵省ちゅうし、慣れん田舎者がですね、五つの省にまたがって、廻される始末でした。」


「市長はほら、頭の弱かったでっしょが。熊本での、調査団の県に対する態度みとって、われわれ水俣から行っとる者は、心配でたまらんとです。」


〇ここでは、はっきり「市長は頭が弱い」と言い切ってます。そんな人が市長をやってます。ここであの、「中空構造日本の深層」の論理を思い出しました。

大事な所には、何もしない人を置いておく、という。

河合隼雄氏は、「権威あるもの、権力を持つ者による統合のモデルではなく、力もはたらきももたない中心が相対立する力を適当に均衡せしめているモデルを提供するものである」と書いています。

何もしないものが、中心にいて、その周りの人々がその時々の力関係で、微妙なバランスをとりながら物事を運んでいく、これが私たちの社会のやり方なのでしょうか。
でも、現実を見ると、実際、そんな感じがあります。

論理的にものを言い、リーダーシップをとれる人が、なぜかみんなに「嫌われて」足を引っ張られ、失脚する、そんな場面を何度か見ました。
リーダーになる人の問題というよりは、それを「担ぎ上げる人」の問題のような気がしました。

つまり、神さまのような一点の「汚れ」もない人以外、許さないのです。
人間である限り、汚れや間違い、欠点のない人はいません。
でも、その小さな汚れをどこまでも突いて突いて、突きつぶす、という具合です。

結局誰もリーダーにはなれない、リーダーには協力しない、という風潮になり、利害で結びついている組織ならいざ知らず、いわゆる市民運動のような理念で結びついている組織はすぐにダメになるのです。

そんな風に見えました。