「年寄りも子どもも船の持ち場につく。夕方から出かける時は網を入れたその舟たちが一せいに魚寄せのかがりを焚く。舟はぐるぐる網をせばめてまわりながら魚たちを寄せる。
櫓を漕ぐ者、かぐらをまわす者、舵をとる者。灯と灯は呼びあい漁師たちの声はひとつになる。
えっしんよい。 えっしんよい、
えっしんよい、 えっしんよい
調子は早くなり、暗い海の隅々をたぐり寄せるしぶきの中で、節くれた皆の手が揃う。」
「猫たちの妙な死に方がはじまっていた。部落中の猫たちが死にたえて、いくら町あたりからもらってきて、魚をやって養いをよくしても、あの踊りをやり出したら必ず死ぬ。」
「うちも、ヨイヨイ病じゃ、なかろ、か」
そうゆきはいった。
味わったことのないような不安が茂平を押しつつみ、二人はどちらからともなく、一緒になってからはじめて舟の上で、ながいことぼんやりしていた。
「ぬしが病気なら、ウインチより、医者どんが先じゃ」
と茂平はいい、ふたりはもつれながら錨を揚げ、櫓をとった。」
「水瓶の水も冷たくとり替えて刺身をとり、塩湯を沸かしてタコを茹で、塩湯の下のカマドの中にくべていて焼きあがったグチ魚の頭と尾を捧げるように両手にもって、薪のくすぼりを吹き吹き、土間をあがってくるのである。
「ぬしが魚じゃ、うんと食え」
と茂平はいう。ぶりぶり引きしまっているはずの刺身が妙に頼りない舌の遠くに逃げて、布ぎれのような味気ない口ざわりになるのを、ごくんごくんと呑みくだしながら、ゆきは嬉しそうな顔つきをしていた。」
「刺身の一升ぐらいは朝晩にナメんと、漁師がたなかばい、といっていた剛気な網の親方の益人やんが、朝舟からコノシロを入れた手綱をかついで降りがけに、あれ、おるも、ちいっと左の腕のしびれたごたるよ、月ノ浦のハイカラ病にかかったかもしれんぞ、と冗談をいって笑った。
土間に手綱をおいて、息子の嫁女の話で出水からやってきた客のために、酒盛りの魚ごしらえをして、その接待を、たしかに十二時すぎまでつとめていたが、いつもは朝の早い益人やんが朝めしに出てこぬので、
女房が毛布をはたきあげてみると、もうかすかに目ばかりをとろんとさせて、いくらゆすって呼んでも、コケのように口をひくひくあけて、あう、あう、と声を出すばかりだったのである。」
「猫のいなくなった部落の家々に鼠がふえた。
台所と言っても大方が窓もない土間の隅に水瓶がひっそり置かれ、水瓶の陰に鱗のこびりついた洗い桶があり、茶碗をおく棚が申し訳に外に突き出してあるくらいだし、鼠たちは遠慮なしに赤土でこねたへっついの上にかけあがり、鉄鍋の上を通り水瓶の縁に飛び移り、吊るされた鈎の手に飛んで伝って、手籠の中に入ったりするのである。
吊り下げられた手籠の中には、ゆでたじゃがいもの、食べ残しの薄皮などが入っていたりするのである。」
「人間な死ねばまた人間に生まれてくっとじゃろうか。うちゃやっぱり、ほかのもんに生まれ替わらず、人間に生まれ替わってきたがよか。うちゃもういっぺん、じいちゃんと舟で海にゆこうごたる。うちがワキ櫓ば漕いで、じいちゃんがトモ櫓ば漕いで二丁櫓で。
漁師の嫁御になって天草から渡ってきたんじゃもん。
うちゃぼんのうの深かけんもう一ぺんきっと人間に生まれ替わってくる。」
「それら決して稜線の整うことのない小道具類や柱や勝手な存在の向き向きはしていても、どれひとつとしてこの家から離れては存在しえないちいさな台所用具たちを、波形の青い光はすっぽりとやわらかくくるみこんでいた。」
「見るからに老い先みじかげな老夫婦と、誰の目にも、_あんわれもだいぶ水俣病の気のまじっとるばい、腰つきも、もののいい方も中風にゃ早か年頃じゃもね_という工合いにみえて、
本人の自覚症状が水俣病の公式的な発生の時期よりいくぶん早すぎたという理由で、いやそれよりも一軒の家から何人も奇病が出ては、お上からいただく生活保護のことでもいちだんと世間がせまいということで、診察を受けにゆくことを遠慮している老夫婦の一人息子と、
(彼のことを村の人たちは清人しゃんとよぶのだった)この息子のもとを逃げ出した嫁女が産んだ三人の孫とが_中の孫の杢太郎少年は排泄すら自由にならぬ胎児性水俣病であるが_計六人が、江津野家の一家であった。」
「なかなかの好男子で長身な彼が、気弱そうにもいんぎんていねいな微笑を浮かべて、二、三度頭を下げると、相手はいつもつりこまれて、用が済んだ気持ちになるのである。」
今は、どうなりこうなり、じじとばばが、息のある間はよか。力のある間は、かかえて便所にもやる。おしめも替えてやる。飯もはさんで食する。
あねさん、ぐらしゅ(かわいそう)ござすばい…。
杢は、こやつぁ、ものをいいきらんばってん、ひと一倍、魂の深か子でござす。耳だけがたすかってほげとります。
何でもききわけますと。ききわけはでくるが、自分が語るちゅうこたできまっせん。
生活保護いただくちゅうても、足らん分はやっぱり沖に出らなやならん。わしもこれの父も半人前もなかもん同士で舟仕立てて、いい含めて出る。杢のやつに、留守番させときます。」
「なんの業じゃろかいなあ、あねさん。
わしゃ、天草から家別れして、親がびんぼで水俣に、百間港のまだ出けとらん時分にきやした。(略)
「あねさん、わしゃふとか成功どころか、七十になって、めかかりの通りの暮らしにやっとかっとたどりついて、一生のうち、なんも自慢するこたなかが、そりゃちっとぐらいのこんまか嘘はときの方便で使いとおしたことはあるが、
人のもんをくすねたりだましたり、泥棒も人殺しも悪かことはいっしょもせんごと気をつけて、人にゃメイワクかけんごと、信心深う暮らしてきやしたて、なんでもうじき、お迎いのこらすころになってから、こがんした災難に、遭わんばならんとでござっしゅかい。
なむあみだぶつさえとなえとれば、ほとけさまのきっと極楽浄土につれていって、この世の苦労はぜんぶち忘れさすちゅうが、あねさん、わしども夫婦は、
なむあみだぶつ唱えはするがこの世に、この杢をうっちょいて、自分どもだけ、極楽につれていたてもらうわけにゃ、ゆかんとでござす。わしゃ、つろうござす。」
〇私の家は漁師ではなかったけれど、この貧乏の感じはとてもなじみ深い感覚として私の中にあります。
そして、この、「お国の為に」「お上があってこその私たち日本人」という感覚も、口に出したことはないけれど、細胞レベルにしみ込んだ感覚としてあるような気がします。
だからこそ、多分、この「苦海浄土」も見るのが嫌だった。
とてもとても嫌だった。
今読みながら、本当にまさにこれが日本だなぁと感じます。