「腰から下が重くて、のしのし足が体の後からくっついて歩けば百姓。骨頬も鼻ばしらもどこか尖り、腰がひねれていれば漁師。
いや、ここらの漁師ならたいがい顔みしりだ。背広を着て、目つきがのっぺりと卑しければ会社のスパイ。若くて大股で、ぴょんぴょん歩くのはたいてい新聞記者である。
いやしかし、このごろの新聞記者というのもうろんくさい。会社の下請の現場に、水俣病のことをききまわるときは、読売の記者といい、部落の中をまわるときは西日本、といったりする。」
「ひとびとははじめ、日々の暮らしの中にふとまぎれこんできた珍事を迎えるように、”奇病”を受け入れようとしていた。それは炉辺に寄ることの好きな村人にはかっこうの怪談だった。(略)
真実を語ろうとすればするほど、はためには虚構らしくみえ、しかしそのつくりごとをいかに迫真的に話、それをききうるか、聞き手の方は、そのつくりばなしの中に身をのりだして参加することで、村の話というものはできあがってゆくものなのだ。
まして聞き手の側に体験の共有があればなおさらに、話のさわりに近づくことができるのが、身についた伝統というものだった。」
「記者たちや自称社会学の教授たちはビックリする。”なんとここは後進的な漁村集落であるか”そして記事の中に”貧困のドン底で主食がわりに毒魚をむさぼり食う漁民たち”などという表現があらわれたりする。
慈善屋たちは、
_もっと悲惨な生活状況と聞いてきたのに、藁屋根の家が一軒もないとは遺憾ですよ。思うに漁民気質のあの、宵越しの金は残さぬとかいう主義で、会社の”見舞金”を家の造作などに使ってしまったのですな。
水俣病の悲惨さを訴えてやろうにも、金の使い方がヘタでアピールしにくいよ_
などとおもいついたりする。
「_水俣病患者互助会は、総評やなにかのように上から、だれかがつくってくれるものでなく、いちばん始まりから、自分たちだけのチエと力でつくらにゃなりまっせんでした。
若い記者さんたちが、つくれつくれといいなはります。そういわれるといわれるまでもなく、だれの力も借りずに自分たちでつくらにゃなりません。
原因のわからんちゅうて、市も県も会社も、だれひとりうてあいません。三十四年の補償交渉のときはそれで、自分の仇を自分でとりにゆく勢いでしかかりました。
世論がしかし加勢しまっせんでした。仇をとるどころかあのようなことになりました。蜂の巣城のたたかいや三池炭坑のことや、アンポのありよりましたけん、水俣病のことは、肩身の狭うございました。
月二十円の会費を資金にして、町の市役所や日窒や、熊本県庁や、日窒の東京本社にデモをかけたり、座り込んだりして、思えばよっぽど思いつめておりましたばい。
坐りこみにゆくにも銭の要る。思いつめにゃでけん。水俣の町の角には立てません。市民が憎みますけんな。よその町に行こうだい、ちゅうて、よその町の角に立ってカンパばお願いしました。
夏の土用の日なかにも、師走の風のふきさらすときにも。」
〇「水俣の町には立てない。市民が憎む」という話がとてもショックです。
でも、この本を今日まで嫌がって読まなかった私も同罪のような気がします。
嫌なことからは、目を反らし、考えないようにして、日々をやり過ごそうという習性があります。
「「おじいさんとこのおばあさんも、水俣病では」
ときくことはたやすい。が、水俣病は文明と、人間の現存在への意味への問いである。たぶん彼のそのような沈黙は、存在の根源から発せられているのである。
彼こそは、存在を動かす錘そのものにちがいない。だからわたくしは、彼の沈黙をまるまる尊重していた。彼がしゃべりだすまでは_。」