読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

母性社会日本の病理

〇 河合隼雄著 「母性社会日本の病理」を読んでいます。
 
「そして、以後に例をあげて論じるように、最近わが国において急増してきた登校拒否症や、あるいは、わが国に特徴的といわれている対人恐怖症の人たちに接している間に、その背景にわが国の母性文化の特質というものが存在していることを痛感するようになった。」
 
 
「しかしながら、母親は子どもが勝手に母の膝下を離れることを許さない。それは子どもの危険を守るためでもあるし、母ー子一体という根本原理の破壊を許さぬためといってもよい。
 
このようなとき、時に動物の母親が実際にすることがあるが、母は子どもを呑み込んでしまうのである。」
 
 
「極端な表現をすれば、母性が「わが子はすべて良い子」という標語によって、すべての子を育てようとするのに対して、父性は「良い子だけがわが子」という規範によって、子どもを鍛えようとするのである。」
 
 
「現在日本の社会情勢の多くの混乱は、著者の見解によれば、父性的な倫理観と母性的な倫理観の相克の中で、一般の人々がそのいずれに準拠してよいか判断が下せぬこと、また、混乱の原因を他に求めるために問題の本質が見失われることによるところが大きいと考えられる。」
 
〇 この「混乱の原因を他に求めるために問題の本質が見失われ」、更に大きな問題になる、ということがあったと思います。
 
例えば、問題が「母性社会」にあるにも関わらず、不登校になった子どもに対し、
「親が甘やかすからなまけ癖がついている」とか「しつけがなってないから、子どもがわがままになる」等の言い方で、親が責められました。
 
そうなると、その言葉だけに反応し、親は、これでもか、これでもか、と厳しくする、という対応になってしまいます。
 
もともと、原因はそんなところにはないのに、厳しく叱られて、子供の気持ちはどんどん病的になってしまいます。
 
すると、うまくいかない、と親はますます厳しく叱ります。
 
実際、「叱ってばかりいると」本当に子どもが憎らしくなるのです。体験者として、そう思います。
 
叱られる→子供も親を嫌う→甘えない子を見て親は更に叱る原因ばかりが目に付く、という悪循環になります。
 
これは、夫婦でも友人でも、どんな人間関係でもそうではないか、と思いますが、
 
しっかりかわいがってこそ、愛情も湧いてくるし、かわいがられた人は、また他の人をかわいがることができる人になるのだと、私は思いました。
 
 
「このため、現在の日本は「長」と名のつくものの受難の時代であるとさえいうことができる。
 
つまり、長たるものが自信をもって準拠すべき枠組みをもたぬために、「下からのツキアゲ」に対して対処する方法が分らず、困惑してしまうのである。
 
 
母性原理に基づく倫理観は、母の膝という場の中に存在する子どもたちの絶対的平等に価値をおくものである。
 
それは、換言すれば、与えられた「場」の平衡状態の維持にもっとも高い倫理性を与えるものである。
 
これを「場の倫理」とでも名づけるならば、父性原理に基づくものは「個の倫理」と呼ぶべきであろう。それは、個人の欲求の充足、個人の成長に高い価値を与えるものである。」
 
〇この「場の倫理」と「個の倫理」の戦いが、あの「苦海浄土」の水俣で起こっていたのか…と。
 
水俣病患者の百十一名と水俣市民四万五千とどちらが大事か、という言いまわしが野火のように拡がり、今や大合唱となりつつあった。」
 
 
 
「日本人の無責任性がよく問題とされるが、それは個人の責任と場の責任が混同されたり、すりかえられたりするところから生じるものと思われる。」
 
 
「ここで善悪の判断を超えてという表現を用いてしまったが、実のところ、「場の倫理」の根本は、場に属するか否かが倫理的判断の基礎になっているのだから、その上、ここで善悪の判断などといっても、それは判断基準が異なるのだから論外である。
 
場の中においては、すべての区別があいまいにされ、すべて一様の灰色になるのであるが、場の内と外とは白と黒のはっきりとした対立を示す。
 
日本人の心性を論じる際に、そのあいまいさに特徴を見いだす人と、逆に極端から極端に走る傾向を指摘する人があって、矛盾した感じを与えるが、これは上述のような観点によると、よく理解されるのではないだろうか。」
 
 
「交通事故の例をあげたが、現在のわが国では、さまざまな局面でふたつの倫理観がいりまじり、いろいろな混乱を巻き起こしているといえないだろうか。
 
このような混乱を助長するもう一つの要因として、次のようなことが考えられる。
 
場の平衡状態を保つ方策として、場の中の成員に完全な順序づけを行うことが考えられる。つまり、場全体としての意思決定が行われるとき、個々の成員がその欲求を述べ立てると場の平衡が保てぬので、順序の上のものから発言することによって、それを避けようとするのである。
 
ここで大切なことは、この順序の確立は、あくまで場の平衡状態の維持の原則から生じたもので、個人の権力や能力によって生じたものではないということである。(略)
 
 
「タテ社会」という用語を彼らがしばしば誤って使用していることに気づく。つまり、彼らは「タテ社会」という用語を、権力による上からの支配構造のような意味で用いるのである。これはまったく誤解である。
 
タテ社会においては、下位のものは、上位のものの意見に従わねばならない。しかも、それは下位の成員の個人的欲求や、合理的判断を抑える形でなされるので、下位ものはそれを権力者による抑圧と取りがちである。
 
 
ところが、上位のものは場全体の平衡状態の維持という責任上、そのような決定を下していることが多く、彼自身でさえ自分の欲求を抑えなばならぬことが多いのである。」
 
〇 ううむ~~~~ と思いました。つまり、「場の平衡」=「水俣の繁栄」とイメージの中で掲げてしまえば、例え、自分の家族に水俣病患者がいて、恐怖と怒りを持っていても、個人としての想いは語れないのが、「タテ社会」。
 
こうなると、誰もが戦争反対と思っていたのに、戦争をしてしまった、誰もが、
早く戦争をやめたかったのに、やめられない、という状況になるのは、わかるような気がします。
 
「このため「革新」を目指す集団の集団構造がきわめて保守的な日本的構造をもたざるを得なくなったり、大企業のタテ社会を批判して飛び出した人が、ワンマン経営の子会社という強力なタテ社会をつくりあげたりする矛盾が生じてくるのである。」
 
 
「場の倫理によるときは、場にいれてもらうために、おまかせする態度を必要とするし、個の倫理に従うときは個人の責任とか契約を守るとかの態度を身につけていなければならない。
 
ところが、ふたつの倫理観の間を縫うようなあり方には、まったく対処の方法が考えられないのである。」