読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

母性社会日本の病理

「つまり、社会から禁じられているシンナー遊びをする点においては、反社会的、あるいは反体制的ともいえようが、求めている体験の本質は母性への回帰であり、わが国の文化・社会を古くから支えている原理そのものなのである。

これに類することは処々に見られ、これらの反体制の試みが簡単に挫折する一因ともなっている。このようなことが生じるのは、結局は日本人がなかなか母性原理から脱け出せず、父性原理に基づく自我を確立し得ていないためと考えられる。」


ウロボロスは、自らの尾を呑み込んで円状をなしている蛇で表され、その存在はバビロン、メソポタミアグノーシス主義など、アフリカ、インド、メキシコにも認められ、ほぼ世界的に遍在している。」

〇 このウロボロスの自らの尾を呑み込むという話を読んで、あの「はてしない物語」の二匹の蛇が互いの尾を呑み込んで輪になっているという話を思い出しました。


「萌芽としての弱い自我にとって、世界は自我を養い育てる母として映るか、あるいは出現しはじめた自我を呑み込み、もとの混沌へと逆行せしめる恐ろしい母として映るか、両面性をもったものとして認められるであろう。」


「つまり、怪物退治は、母親殺し、父親殺しの両面を持ち、その母親殺しは、肉親としての母ではなく、自我を呑み込むものとしてのグレートマザーとの戦いであり、自我が無意識の力に対抗して自律性を獲得するための戦いであると解釈した。


さらに、父親殺しとは、文化的社会的な規範との戦いであり、自我が真に自立するためには、無意識からだけではなく、その文化的な一般概念や規範からも自由になるべきであり、そのような危険な戦いを経験してこそ、自我はその自律性を獲得し得ると考えたのである。」



「自我確立の神話をこのように真に簡単にスケッチして見せたが、ここで母親殺しを遂行できない人間はどうなるのかという疑問が生じてくる。

その点について、ユング派の人たちは「永遠の少年」という元型を取り上げるのである。」



「「永遠の少年」は英雄として急激な上昇をこころみるが、ある時突然の落下が始まり、母なる大地に吸い込まれる。死んだはずの彼は、新しい形をとって再生し急上昇をこころみる。(略)

彼らは社会への適応に何らかの困難を示しているが、彼らは自分の特別な才能を曲げるのが惜しいので、社会に適応する必要はないのだと自らに言い聞かせたり、身分にぴったりとした場所を与えない社会が悪いのだと思ったりしている。(略)


ところが、ある日突然、この少年が急激な上昇をこころみるときがある。偉大な芸術を発表しようとしたり、全世界を救済するために立ち上がる。その時のひらめきの鋭さと、勢いの強さはときに多くの人を感嘆せしめるが、残念ながら持続性をもたぬところがその特徴である。


彼らはこのようなとき危険を恐れないので、しばしば勇敢な人と思われるが、真実のところその背後に働いているのはグレートマザーの子宮への回帰の願いであり、その願いのままに死をむかえることもある。(略)

彼らは今日はマルクス、明日はフロイトと華々しく活動するが、その間に連続性のないことを特徴としている。


ところで、今ここに個人のこととして描いてみせた行動パターンは、実は日本の社会全体の動きに似ていないだろうか。わが国の文化の背景に「永遠の少年」の元型が強力に働いていることは、後に浦島伝説について論じる中で少しふれることになるが、この点をもう少し追求してみたい。」



「この点を、日本人の自我の確立にあてはめて考えるならば、日本の若者たちはその自我の確立のためのイニシエーションをどのように体験しているであろうか。彼らは父を求めて右往左往するが、出会うのは母ばかり。

しかも彼ら自身、母親から分離し切れていない状態となっては、業を煮やしての短絡行動も生じてくる訳である。

イニシエーションの儀礼として、内的に行われるべき死と再生の密議は、にわかに外界に向かって行動化され、それは自殺や他殺という事件へと成り下がってしまう。」


「新聞をにぎわす血なまぐさい事件を、失敗に終わったイニシエーション儀礼としてみると了解できることが多い。」



「ここで、われわれは父性原理の確立にもっと努力すべきではあるが、それは単純に西洋のモデルをよしとするわけではない。」


「登校拒否症がわが国において発生しはじめたのは、1964年頃であるが、初め都市部に発生したのが、田舎にもひろがり、低学年から高学年へ、ついには大学にまでひろがって、教育相談の半分ほどが、この問題で占められるようになった。」


「わが国の場合は、母性原理に基づく文化を、父権の確立という社会的構造によって補償し、その平衡性を保ってきたと思われる。

つまり、父親は家長としての強さを絶対的に有しているが、それはあくまで母性原理の遂行者としての強さであって、父性原理の確立者ではなかった。

「虚構の家」に出てくるタイラント(暴君)型の教育学者の父親はその典型である。
やたらとタイラント(暴君)ぶりを発揮するが、事件に直面してゆく力をもたず、妻の献身に無意識的によりかかって生きている。」


〇私の知人にも、夫が息子の問題に向き合おうとせず、母親まかせにする、と嘆く人が、二人もいました。
それが原因で、夫婦の間も危機的な状況になりました。

うちの夫も仕事が忙しく、最初は同じでした。でも、最終的にはわかってくれて、極力一緒に食事をし、一所にスポーツ番組を見(二人ともサッカーが好きでした)、息子と付き合ってくれました。

結果的に、それが良かったのではないかと思っています。


「ここで大切なことは、子どものみではなく、父親も母親さえもグレートマザーの犠牲者だということである。(略)

昔風のタイラント型の父親が駄目と分かった時、多くの日本の父親たちは「物わかりの良い」父親に変身しようと努めた。

すぐに右から左に変身できるところが、そもそも父性原理の弱さを反映しているが、この物わかりの良い父親も子どもたちの真の成長に対しては、マイナスとなることが多い。」


「このように考えてくると、今まで述べてきた日本の母性文化の問題は深い宗教性の問題にまでつながっており、父なる宗教を知らぬ国民として、グレートマザーとの戦いは真に困難をきわめることが予想されるのである。(略)

その底に非常に深い宗教性の問題が存在していることを痛感するのである。そして、われわれとしてすぐに反省させられることは、この人たちを満足せしめるような、宗教教育がわが国において何ら行われていないということである。

こんなことをいって、何も私は子どもたちに何か特定の宗教の教義を教えることを進めているのではない。」

「これらの疑問に答えられぬまま、日本の多くのインテリは親子関係のことは、たかだか「家庭欄」のことで「文化欄」で論じられることではないとたかをくくっている。

その実、外での高尚な理論と裏腹に、内で「女・子ども」と真に対話し対決することを避けて通っている。

ここには、軍部との対決を避けて文化を論じていた、昭和の初期の青白いインテリの姿を連想させるものがある。」