読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

母性社会日本の病理

「日本人の平等性の主張は背後に母性原理をもつために、能力差の問題にはできるだけ目を閉じてゆこうとする傾向をもつ。


あるいは、時にそれはタブーにさえ近い。それが完全にタブーとなった状態を、筆者は「平等信仰」と呼びたい。

ここに、わざわざ信仰などという言葉を用いたのは、能力差という事実は、真に残念なことではあるが、現実に存在するからである。」


〇ここがすごく不思議なのです。自然をしっかり見て自然と共に生きる日本人であれば、「自然」が動植物をどれほどバラエティに富んだものとして作っているか、しっかり分かっているはずではないか、と思います。

にもかかわらず、自然が示す真実を見ようとしないというのは、どういうことなのでしょうか。

自然自然と言いながら、つまり「意識しないこと」や「不快な事実については考えない」ということを優先し、実はただイメージの自然とともに生きているだけではないかと感じてしまいます。


「欧米の小学校に落第制度があることは、最近よく紹介されるのでご存じの人も多いと思う。

たとえば、1974年フランス全体で小学一年生の留年率が33%というのだから驚かされる。(略)


フランスで五年間一度も落第せず、ストレートで卒業した子は27%のみである(「いま学校で ソ連・西欧」「朝日新聞」連載644回)。


筆者は1960年代にスイス留学中、小学校に落第のあることを知って驚いたのであったが、その時、スイスの先生はまた日本に落第のないことを不思議がり、「そんな不親切な教育をしてもいいのか」と言われたのが、非常に印象に残った。


「スイスでは、たとえば肉屋さんになるにも資格を必要とする。定められた年限だけ肉屋さんに徒弟として働きながら、週に何回か学校に通い、必要なコースをとって資格試験に合格し、はじめてメッツガー(肉屋)・マイスターとなることができる。」


「しかし、ここで注目すべきことは、われわれが戦後の民主化を推し進めてくるとき、母性的な平等性を旗じるしとしてかかげてきたのであり、そのため西欧の民主主義とは相当異なるものをつくりあげてきたという事実である。」



「ひとつの文化なり社会なりは、その中に矛盾をはらんでいるように見えながら、それなりの全体的なバランスをとって存在しているものである。

われわれが日本の社会における身分の考えを破壊し、なおかつ母性的な平等性を保持しようとするとき、それはどうしてもバランスを失い、どこかにゆがみを生じせしめてくる。(略)


これに等しいほどの平等信仰が陽の当たるところに存在するとき、そのバランスを回復するための陰の動きは勢い活発とならざるを得ないのである。」


「学校教育という表通りで、絶対的な平等観が強調されればされるほど、裏通りの塾では「差をつける」ことに価値が置かれる。」



「競争が影のものとなるだけに、隠微なものに堕してゆく。(略)

学校では平等や仲良しということを学んだとしても、生活全体の中から彼らが学びとることは別のことではないだろうか。」


「教師に対しては、ぞんざいな口のきき方をする生徒でも、クラブの先輩に対しては妙な敬語を使っていることは多い。(略)

そこに働いている父性は、しかし、西洋における父性とは異なっている。それはいわば戦前の状態への逆戻りに近く、母性原理の遂行に父性が奉仕している形である。

すなわち、個人の個性を尊重するのではなく、ひとつの集団なり場なりの維持のために厳しい父性を用いているのにすぎない。」