読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

母性社会日本の病理

「先にも述べたように、欧米の諸国やロシアなどでも受験や競争は激しいのに、日本で特にこれを問題にしなければならないことについて考えて見よう。

まず、筆者の体験からいうと、落第することや、あるいは退学などに関して、日本人ほどその本人がみじめな思いをしていないことである。」


〇私自身、日頃から強く感じるのは、どうしてこんなにも、「間違うこと」を恐れるのだろう、ということです。
「誰かに笑われる」からということよりも、間違うということで、自分自身に嫌気がさすのは、なぜなんだろう、と思います。

間違う=能力が低い、と自分でも落ち込むのだと思います。

間違わないでやって行くためには、何もしないことが一番だ、となります。
少なくとも、前例に外れるようなことはしないとなります。



「このような日本の現状を考えるとき、能力差の存在をはっきりと認めることは危険でもある。それは、そのことがある個人を簡単に場から外すための理由として用いられるからである。」


〇これは、もう何度も引用している「夜回り先生」の中の言葉です。
もう一度、ここでも、引用します。

「この世に生まれたくて、生まれる人間はいない。
私たちは、暴力的に投げ出されるようにこの世に誕生する。

両親も
生まれ育つ環境も
容姿も
能力も
みずから選ぶことはできない

何割かの運のいい子どもは、生まれながらにして、幸せのほとんどを
約束されている。
彼らは豊かで愛に満ちた家庭で育ち、多くの笑顔に包まれながら
成長していくだろう。
しかし何割かの運の悪い子どもは、生まれながらにして、不幸を背負わされる。

そして自分の力では抗うことができない不幸に苦しみながら成長していく。
大人たちの勝手な都合で、不幸を強いられるのだ。

そういう子どもたちに不良のレッテルを貼り、夜の街に追い出そうとする
大人を、私は許すわけにはいかない。」


これは、「事実」に反しているでしょうか?
普遍的な問題とは言えないでしょうか?

誰も、「知能指数が低い人」として生まれたかったわけではない。
知能指数が低いことは、その人の責任でしょうか?

知能指数が低い、とはっきり標準以下とされると、今ではある程度理解もされているのかもしれません。

では、能力の差だと、どうでしょうか。
まだまだその人の責任にされていないでしょうか?
もっと頑張ればできるはずだ、と。出来ないのは頑張らないからだ、と。

私はこの「何故もっと頑張らないのか!!」という言葉に本当に苦しみました。

でも、前にも言ったように、そこで、さんざん苦しんだ挙句、やっと気がつきました。それを教えてくれたのは、キリスト教であり、聖書でした。

人は皆、違って生まれついている。
もともと相当高い能力を持っている人もいるけれど、
生まれつき、それほどではない人もいる。

この本来は誰もが知っている事実を何故私は事実だと思えなくなっていたのか、
今となっては、その方が不思議です。

今のままでいいんだよ。

この価値観で、私は本当に救われました。

でも、私たちの国では、「今のままでいいんだよ」と言われたとたん、
怠け者になる、と考えるんでしょうね。
だから、それを恐れてもっと頑張れ!もっとできるはずだと言われ続ける。

誰かに言われないと頑張らないと信じられている。
自らの気持ちでは頑張らない、と。
人間は本来そういうものだ、と。

でも、自らの気持ちではなく頑張らざるを得ないところに追い込まれると、
うつ病になります。


「先に例としてあげたアメリカの学生が大学を退学するときにしても、スイス人の青年が自分に適した職業学校を選ぶときにしても、各人はいわゆる学問という点で自分の能力の劣ることを認識しているが、個性に合った道を選ぶことに誇りをもち、自らの存在価値そのものを脅かされてはいないのである。」


「われわれの平等信仰は非常に根強いので、すべての人間は平等の能力をもって生まれていることを無意識的に前提としている。そこで、学力差が生じてくると、その差をそのままその人間の存在価値にまで拡大してしまうのである。


差がないはずなのにあるということは、本人の努力が足りないとか心がけが悪いと見なされる。これでは下積みになったものはたまらない。

平等信仰と一様序列性が結びつくとき、実に多くの人に、みじめさや劣等感コンプレックスをもたせることになる。」