読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

母性社会日本の病理

「劣等感コンプレックスが生じるもう一つの条件は、自分の能力の程度が明確に把握できないことである。自分が何かに対して劣等であることを認識し、それが自分の存在を脅かさぬことが分かったとき、人はコンプレックスをもたない。

判断が不安定なときはそのこと自身が不安の源泉となり、コンプレックスを生みだす。(略)

しかも、教師が表向きは、評価を下さないとか、みな平等であるといいつつ、背後では日本的序列性に拘束されていて_この拘束力から解放されることは実にむずかしいことだ_そのような見方で生徒を見ているとき、

これは劣等感コンプレックスを培養するための好条件なのである。


「ところで、生徒に対して、もしわれわれ教育者がその学力や能力の劣等性を確実に指摘するとするならば、そのことがその個人の人間としての尊厳性とまったく無関係であることを、われわれ自身が腹の底まで納得している必要がある。」


〇子供が不登校になった時、まず、親が学校に行かないことを問題視しなくなることが必要です、と言われました。でも、この「腹の底まで納得する」というのは、本当に難しいことです。

私は、あの「禅」の話を読んだ時、この時期にしていたことは、まるで禅の修行のようだった、と思いました。

問題は外=「息子との関り」にあるのですが、一番大変だったのは、自分自身の心の内での闘いでした。


「筆者のところに相談に連れてこられたある高校生は、ずっと学校を欠席したままであった。話し合いの中で彼が述べてくれたことは、父親が一流の大学出身で非常に優秀な人であって、自分は何をしても父親に及ばないで叱られてばかりいる。

父親は最高の人間で自分は最低だから、せめて父親のできない悪事をはたらいて無茶苦茶をして生きていくつもりだとのことであった。(略)


最高、最低という場合、どれほど学問ができるかあるいは金がもうかるかで判断することは容易である。この少年が父親のできぬ悪事でもせめてやってやろうなどというとき、反抗しているように見えて、実は彼もこの尺度にとらわれているのである。」



「逆説的になるが、われわれは自分の無限性を知るためには、まず人間というものが限定された存在であることを認めねばならない。

限定に関する痛い認識の中に、個性の存在、すなわち無限の可能性の存在が意識される。」