読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

母性社会日本の病理

「これは、人生の前半の落伍者たちが、いわゆる「遊び」の世界に逃避して、仕事の意義を忘れるのと対照的である。


中年の人たちは仕事の中に逃避して、あるいは仕事に埋没して内面的な意味に直面するのを免れる。」


「中年の危機としては、いろいろな事件が生じるが、その中でもっとも多いと思われる男女関係のことを取り上げてみよう。」



「それにもともと自分は浮気の意志などまったくもっていなかったのだが、いかに「偶然に」このようなことになっていったかという点も強調される。」


「しかし、逆に、子どもの問題が生じたので夫婦力を合わしてそれを解決しようと努力しているうち、中年の夫婦に起こりがちな愛情の危機を経験しなくてすんだなどという場合もある。」


「このような点を検討するためには、この問題を浮気であるかないかと判断したり、あるいはひとつの倫理観やイデオロギーに基づいて、ただちに善悪を判断したりするのではなく、もう少し異なる観点から見る必要があるのではないだろうか。」



「社会は各人のペルソナがある程度の統合性と恒常性をもつことを期待している。ペルソナがあまりにも変貌するとき、われわれはその人にどのような役割を与えるべきかわからなくなってしまう。」



「彼らの多くはどのような新しい可能性が開かれようとしているかを意識し、自分の過去の経験を基にして、それを統合してゆくことができず、むしろそれに取りつかれ、可能性の世界の爆発的な力によって破壊されてしまうのである。


未知の世界にはいろうとする人は、自分の能力の限界を明確に認知していなければならない。


未知の世界へ乗り出すことの危険性をおそれるあまり、中年の人々が既知のものにのみすがりついて生きてゆこうとするのも、むしろ当然であるかもしれない。」


「このような人は、バシュラール(フランスの科学思想家)が皮肉っぽく、「科学における偉大な人間は、その前半は有益であっても、後半生は有害である」(化学的精神の形成」)と述べた状態に陥ることになる。」



「中年の危機はもちろん他の形態をとっても現れる。中年になって急に職業を変えようとする人、今まで手出しをしていない事業に乗り出す人、趣味や道楽の世界に埋没する人、皆同じことである。」



「このことは、近代人の自我は、国や社会による守りや制度に頼って、世界を住み分けることによって人格のバランスを保つことを潔しとせず、自らの責任において日常と非日常、合理と非合理の統合を引き受けようとする倫理観をもつようになったといっていいと思われる。」

「ところで、われわれが近代になって公娼制度の廃止を決定したとき、むしろ上述のような考察を抜きにして、あまりにも合理的な思考のみに頼ってしまった欠点があるように思われる。


女性の人権問題などのことは確かに当然のことであり、これらの合理的な考察と論理がわれわれの決定に役立ったのであるが、それは同時にわれわれ自身の生き方についての相当な改変と決意を必要とすることを忘れしめ、すべてがそのような合理的な割り切りによって片づけられるという錯覚を起こさせることになったのではないだろうか。


つまり、われわれの決意は、この世の中にあの世をも混在せしめ、なおかつそこに統合的な意味を読み取ろうとする倫理的な決意につながるべきものであった。

この点を自覚しない限り、われわれの倫理観はただちに崩壊して一面的で弾力性を欠いたものとなってしまう。

精神と肉体のダイナミズムに耐えられなくなった時、両者は極端に乖離して、低級な肉体性の切り売り文化の繁栄をもたらすか、さもなければスローガンという言葉の暴力への固着現象を引き起こす。

かくて、ポルノ文化の繁栄を嘆いて、それをまたもや国や社会の力に頼って統制しようとしたりする逆行的な倫理観を生みだしてくることになる。」


「結局、われわれはこのような一面的な方向に堕してゆくのではなく、今までいささか栄養不良気味であった精神というものに肉付けを与える努力をしなければならないであろう。

そのようにしてこそ、倫理観の革新が成し遂げられるのであろう。」


〇河合氏の話は、時々、「それって結局何を言おうとしているの?」と思えるような言い回しになります。

私の理解では、あの山本氏が「日本はなぜ敗れるのか」で言っていた、教養の問題を言っているのではないかと思いました。

「だがしかし、そのことは、高度の学歴を持つ無教養人がいてこれまた少しも不思議ではない、ということではないはずである。
しかし日本でこのことが意識され出したのは、ここ二、三年の事ではないかと思う。われわれが、今までのべてきたような状態から脱しうるのは、おそらく、これからの課題であろう。」