読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

母性社会日本の病理

「中年に至るまで多くの夫婦は、肩を並べて同一目標に向かってすすんでゆくか、背中合わせになって周囲の敵に対して共同して戦っている。ところが、中年になってお互いが正面から向き合ってみると、いかに二人が未知のものであり、理解し合っていなかったかに気づくのである。

そして、その実これはお互いが自分の内面に未知の、理解しがたい領域を持つことを意味している。(略)


生きられなかった可能性は自己主張を行い、各人の既存の価値観に対する強い挑戦を行う。ここで、それら内面のことをすべて、わがこととして引き受け、対立する価値観の統合をはかる努力を続けることによってこそ、お互いの発達が生じてくる。


ところが、彼女がしたように、単に外在化された人物としての新しい彼に一面的によりかかることのみを考えるならば、結局は不幸な結末を得ることにになってしまう。」


「人生の後半において、われわれは死後の生命についての神話を見いだす努力を払わねばならない。このように考えると、死にゆく者としての生活設計は中年よりすでにはじまっており、この点についての周到な準備なくしては、われわれは意味のある老いと死とをむかえることができないであろう。」


〇私の兄弟が子供に「人はなんのために生きているのか?」と問われ、責められている、と言っていました。兄弟は、多分、「何のために生きるのか」など考えたことがないのだと思います。

兄弟は友人も多く、情熱をかたむける趣味もあり、安定した仕事につき、年金も十分にあり、唯一の問題と言えば、この子供がひきこもり気味の生活をしている、ということくらいなのです。

普通は、人は何のために生きるのかなどとは、考えない。不幸な人だけが考える。と兄弟は思っているのでしょう。

死について考えることも含めて。

そんなことは何も考えずに生き、充実した日々を送り、ある日死すべき時になっていたとして、だからと言って、
意味のない死、老後とは言えないのかもしれません。

私はその兄弟のような「恵み」は与えられずに育ちましたが、でも、別の「恵み」を受けていたのかもしれない、と感じることがあります。
私は、10代前半ごろから、いつも何のために生きるのかと考え続けていました。
それだけ、厭世感が強かったのだと思います。

でも、今はこの人生で良かったと思っています。
私なりに、死や生について考える時間がありました。