読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

母性社会日本の病理

「夢で何が分かるか、何が行われるか」

「夢世界の重み」

「夢は多くの人に興味深い話題を提供する。親しい仲間の雑談において、現実世界の話題もそろそろつきかけた頃、誰かが夢について語りはじめるおt、またそこに夢の世界の話がひと花咲くことが多い。(略)


夢を語るときの熱心さとは裏はらに、夢はまったく無意味であると断定する人。自らの「正夢」の体験に固執して、夢を信じることを主張する人、あるいは、水泳の夢を見た時に、目覚めてふとんを着ていなかったことに気づき、それによって夢が「分かった」と考える人もある。」


〇 第三章 日本人の深層心理 という標題の中に、「夢で何が分かるか、何が行われるか」という見出しがあり、「夢世界の重み」となって、文章が始まっているのですが、私は、まさにここにある、「夢はまったく無意味であると断定する人」の部類に入ります。

なので、一応読んだのですが、全然興味が湧きません。
もちろん、ユングや河合氏が、夢によって深層心理を知る糸口を見つけようとしている、ということは、理解できます。でも、私は、ほとんど夢を見ないのです。多分見た夢を起きた時には忘れてしまっているのです。


だから、人が夢の話をするのを聞くのは面白いのですが、私自身は夢について何か話すことは出来ませんし、なるほど~と興味を引かれる言葉もありませんでした。


ということで、ここは省略して、次の「対人恐怖の心理」に行きたいと思います。


ユングは東洋の宗教に深い関心を抱き、理解を示しているが、チベットの宗教書に対するコメントの中で、西洋人は心というと意識のことを指すのに対して、東洋人はむしろ無意識のほうを意味すると述べている。」


ウロボロスは自らの尾を呑み込んで円状をなしている蛇で表される。
「それは同時に男性であり女性であり、孕ますものであり孕むものである。呑み込むものであり生み出すものであり、活動的であり受動的であり、上であり下である」。

このウロボロス的な全体性の中に、自我がその萌芽を現わすとき、世界はグレートマザーの姿をとって顕現する。

グレートマザーの像は全世界の神話の中で重要な地位を占めている。それはすべてを生みだし、弱い自我を養い育てる面と、逆に、出現し始めた自我を呑み込み、もとの混沌へと逆行せしめる恐ろしい母としての面との両面性をそなえている。


このようなグレートマザーの中で育っていった自我は、次の段階においては、父と母、天と地の分離、光と闇などの分離を体験する。まさに「世界の体験は対極性を通じてのみ可能なのである」(ノイマン)。

ここに意識は無意識から分離され、ものごとを区別することを学ぶ。」



「つまり、怪物殺しは母親殺し、父親殺しの両面をもち、母親殺しは、自我を呑み込もうとするグレートマザーとの戦いであり、無意識の力に抗して、自我が自立性を獲得するための戦いであると解釈したのである。


さらに、父親殺しは、父なるものとして表される文化的社会的規範との戦いであり、自我が真の自立を得るためには、無意識からだけではなく、文化的な一般概念や規範からも自由になるべきであり、そのような危機的な戦いを経験してこそ、自立が達成し得ると考えたのである。


怪物退治の後に、英雄はしばしば怪物に捕らえられていた女性を解放し、それと結婚する。

このことは、母親殺し、父親殺しの過程を経て、自らを世界から切り離すことによって自立性を獲得した自我が、ここに一人の女性を仲介として、世界と新しい関係を結ぶことを意味している。」


「ここにノイマンンの説を真に単純化してスケッチして見せたが、ここに示した、自我確立の過程を、ノイマンは「西洋人のなした特異なアチーブメント」と呼んでいる。


結論を先取りして述べるならば、このように「西洋人に特異な」自我確立の傾向が、日本人の心の中に生じてくるとどうなるだろうか、それはおそらく、その人にとっては周囲の状況と何らかの摩擦を起こさざるを得ない事態に追い込まれることになるであろう。


それこそ、対人恐怖の心性の根本をなすものであると、筆者はいいたいのであるが、結論を急ぐ前に、対人恐怖という現象を、このような観点から見なおしてみることにしよう。」



「対人恐怖症は欧米諸国と比較して、わが国において特に多いといわれている神経症である。それに後述するようんば特異性をそなえているためもあって、わが国の多くの精神医学者、臨床心理学者によって、すでにさまざまの観点から論じられてきている。」



「対人恐怖症の心性については、多くの意見があるが、そこに何らかの対立矛盾する二面性の存在を指摘する人が多い。


まず、内沼も述べているように、対人恐怖の人が「強気と弱気の二つの相反する性格傾向をもって」いることは、誰しも気づくことである。」




「これに対して、われわれ日本人の場合は、確立された個人の自我が関係を結ぶようなあり方ではなく、日本人の集まりは、まず何よりも「全体としての場」が先に形成烏され、その場の平衡状態をいかに保つかということが、重要になってくるのである。


西洋における、個人の成長、個人の自我の確立に高い価値をおく倫理観を「個の倫理」と呼ぶならば、わが国の、場の平衡状態の維持に高い倫理性を与える生き方は、「場の倫理」に基づくという点については既に述べてきた。


対人恐怖症の人々は、場の倫理に基づく対人関係をもつことができない。対人恐怖は、その他の恐怖症、たとえば馬が怖いとか、鼠が怖いとかと同様に、人が怖いのではなく、対人関係に問題があるのである。


彼らの無意識内で、個を確立する傾向が強められると、それは「場を破るもの」として作用し始める。」