読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

母性社会日本の病理

「しかしながら、日本人は場の中に個を完全に埋没させているわけではない。われわれは場の平衡状態を維持しながらも、自分の個を生かしてゆく方法を身につけている。

それは「自我かくし」ともいうべき技法である。

また、場の中に共存しつつ、なおかつ自分を生かしてゆくためには、「間」の感覚を身につけなくてはならない。そのようなことが、対人恐怖症者にとって、いかに困難であるかは、たとえば彼らが一対一の人間関係のときはそれほど困難を感じないが、三人になると急激に困難さを感じるという事実によっても知ることができる。」

〇たしかに!この「自我かくし」というのは、納得できます。


「この結果から分かることは、非言語的コミュニケーションというと、すぐに身体接触を考えること自体が西洋的な発想であり、日本人のコミュニケーション手段は、西洋人のそれと比較すると、言語と身体接触の中間帯に異常に多く依存していることが分かる。」


園原太郎は羞恥の感情の生じるときを、「ふだん外にあらわれていなかった自分というものを、突然にエクスポーズ(露呈)してきた」状況と述べている。


〇「自我かくし」で、ほんらいそれを隠していたのが、出てしまうので、「羞恥」なのでしょうね。

「彼(作田啓一)はベネディクトに対する有名な反論の中で、「羞恥が生ずるのは,普遍者として取り扱われるはずの状況の下で、個人として注視されたり、個体として取り扱われるはずの状況のもとで、普遍者として注視を受ける時だ」と述べている。」

〇普遍者と個人の取り違えで羞恥が生ずる、というのが、よくわかりません。
隠していたものが人目に晒されてしまうから、隠し通して相手を「騙し通そうと」していたのに、見つかってしまい、その「騙そうとした意図」がバレてしまうから、恥ずかしい、となるのだと思いましたが。


「われわれは、場の平衡状態を壊しそうなとき、自分の心の中に生じる羞恥の感情によって規制されるのである。」


「われわれ日本人は子どもの時から、この羞恥の感情に基づく自己規制の方法を学習させられている。恥ずかしい、人から笑われる、という言葉が子供の行動規制の上で、しばしば用いられるのも、このためである。


このように考えると、対人恐怖症者は、赤面などの羞恥の感情が生じるから問題なのではなく、その生じ方に問題があったり、羞恥に拘ったり、それを恐れたりする点に問題があることが分かる。


彼らは無意識内に存在する西洋的な自我が突然に露呈されそうになった時、それを恥ずかしく思う。それは場を破るものとして作用するためである。


ところが、一方、それはこの倫理に従えばむしろ他に優越すべきことであり、恥ずかしく思う必要のないことである。

彼らは心の中に、恥ずかしがってはならぬという声を聞くのである。このような矛盾が彼らを窮地に追い込むのである。」


〇なるほど~ わかりにくかったのですが、例をあげて考えて見るとわかりました。

十代、二十代の頃、電車の中で老人に席を譲る、というのが出来ませんでした。
電車の中では、「電車に乗っている一乗客」=普遍者。
でも、席を譲るのは、「個人としてのふるまい」になります。だからなのですね。

全く目立たないで、誰にも気づかれずに降りるはずの人間が、シーンとしている電車の中で、突然立ち上がって、「どうぞお座りください」と言うのは、恥ずかしい。

しかも、そこで「いえ、結構です」などと言われたら、どんな顔をしてそのあと、その席に座っていればいいのか。

でも、一方、たったそれ位のことも、恥ずかしくて出来ない情けない人間なのか、という声も心の内から聞こえてきます。

恥ずかしいからしない、という自分が自分で許せない。
でも、恥ずかしい。

ここで考えたのも、大きな声で言うのは恥ずかしいのですが、「人を愛せる人になりたい」という動機です。

もし、「自然のままに…」「お腹の中はからっぽに」「人はそれぞれ自らの課題を生きて死ぬ」というのを、生きる指針としていたら、
「老人に席を譲る」という行為はどういう根拠で、出てくるでしょうか。

「恥ずかしいからしない」という自然感情に逆らわず、イイ人ぶらずに、
生きていれば良いことになります。

老人を大切にすることに、勇気が必要なら、その勇気を持たなければなりません。
勇気を持ちたいと思いました。

極端なほど、恥ずかしがり屋で人前では何もしゃべれなかった私でしたが、その勇気を出す練習を繰り返して、やっと今では、席を譲れるようになりました。

(というより、今では、席を譲られる側になりましたが(^-^;)


「ここで、彼らの無意識内に生じてくる自我確立の傾向は、ノイマンの説に示される通り「英雄」そのものであるが、彼らの意識のほうは、これを現実化する力をもたないことが重要な問題なのである。」



「彼らは突然に露呈する自我確立の傾向のため、優越感と劣等感を同時に味わい、その谷間の中で強い羞恥に教われる。」


〇この「優越感と劣等感の谷間」は、私も嫌になるほど味わいました。

   ↑そして、今だからこんな風にも言えますが、それは本当に恥ずかしいことだ    
    と感じていました。


「彼女(ベネディクト)が文化を罪の文化と恥の文化に分類し、前者は内面的な罪の自覚に基づいて善行を行なうのに対して、後者は外からの強制力に基づいて善行を行なうとし、日本文化を西洋のそれと比較して、後者に属すると主張したことは周知のことである。」


「これは、新福尚武が「対人恐怖は単なる「ひと」恐怖でないどころか「おのれ」恐怖的である。……「おのれ」と「ひと」が交錯し、混交し、未分化であるところが本症の本症たるところかもしれない」と述べているのに符合するのである。」



「西洋的な自我の確立は、日本的な場の破壊へとつながるので、その傾向が無意識内に存在することを意識し始めると、自分自身を一種の加害者と見なすことになってくる。

この点を強調すると、山下格が端的に表現しているように、「対人恐怖は加害恐怖ないし加害妄想である」ということになろう。」


〇この「加害恐怖、加害妄想」というのは、とてもよくわかります。
今でも、私は必要最小限の自己主張、必要最小限の人との関り、で生きていたいと願っています。

「必要」とされるなら、関わりますよ。そうじゃないなら、私は一人でいる方がいいです。という具合です。

もちろん、そうは思っても、そうじゃないことはあるのですが、
気分は、そんな気分です。

「加害者にはなりたくありません」、という立派な?理由というよりも、今や、もうその葛藤が辛いのです。楽にしていたいのです。



「人間が意識を獲得すること自体、罪を生ぜしめる。後述するように、それはアダムとイブの神話に示されている。

ノイマンはこの罪の源泉は超個人的なものであるといったが、このような罪を意識化し統合することは、一個の人間としてほとんど不可能に近いと思われる。


このような心的内容に直面した人が、意識の統合性を失い、妄想などの症状を持つに至るのも、もっともなこととうなづけるのである。



しかし、一般にはそれほどの深い対決にまで至らないままに、適当な程度において意識はそれなりの統合と安定を保っているのである。


いってみれば、日本的な人が日本的場の中で普通に生きているかぎり、その人は対人恐怖にも何にもなることなく、正常な生活をおくるわけである。


先に示したほどの深さを持たないにしても、対人恐怖の人にとって異性との関係はまことに困難なことである。」


〇この、日本的な人というのを私の知っている人を念頭に置きながら、イメージしてみると…

日本的な人は、電車の中で老人を見ても、席は譲りません。誰か他の人が譲るだろう、と考えて、そのことで内心少しも後ろめたく思いません。

万が一、その老人が怪我をしたとしたら、それは、自分が譲らなかったせいではなく、他の誰もが譲らなかったせいだと考えます。
なんて、情けない奴らだと。その情けない奴らに、自分は含まれません。

これが、日本人的な人です。

そして、多くの人が老人に席を譲る社会になったとしたら、今度は自分も譲るのだと思います。みんながどうするか、それが基準になります。

ここで、ある意味、うらやましいな、と思うのは、少しもその罪を意識しないので、
その罪が自分にもある、などとは思わずに生きていることです。


「意識が罪を生む」というのは、そういうことなんだろうな、と思います。

「老人を大切にする必要があるという意識」があるから、席を譲らないことへの罪の意識が生まれます。

最初からそんなことを何も考えず、何も意識しなければ、あのアイヒマンのように罪の意識は全くなく、生きていられます。