「ところで、このような対人恐怖症の人がどのような治療過程を歩むか、あるいは、いかなる「自我」をつくりあげるかは大いに興味のあるところであろう。
今まで示してきた夢の系列によっても、ある程度の推察がつけられようが、最終段階としてはどうなるかに関心がもたれると思う。(略)
日本人が深い罪の問題に直面することは、その意識の統合を危うくするほどのものがあると述べたが、ここで、そのような問題との直面を避けた場合、その人は症状に苦しむことはないであろう。
そして、その人は症状が消え去ったという意味では治ったということになるであろう。
筆者は臨床家として、問題と直面すべきとも避けるべきとも断定することができない。ただ、本人のすすむ道に従ってゆくのであるが、多くの場合、症状の背後のメカニズムが解明されたり、筆者がここに長々と述べてきた西洋的な自我の確立の問題が明らかにされたりすることなく、症状が消えることによって治ったことになるのである。
対人恐怖症の治療を数多く行っている山下格が、ほとんど同様の見解を述べ、「症状の背後にある対人的態度について十分な洞察を得ることは、少なくとも短期間の治療において殆ど望み得ない」と述べているのは興味深いことである。」
「筆者が一応「場の倫理」と呼ぶわが国の傾向に対し、個の倫理とも呼ぶべき傾向を無意識内に強く感じるため、彼らは不適応を起こしている。それは一応、不適応というべき現象ではあるが、文化の一般的傾向を補償する意味を持つのである。」
〇「補償する」とはどういうことなのか…。
「このように考えてゆくと、次に生じる大きい問題は、では日本人の自我はどうあるべきであるか、ということであろう。
筆者は、個の倫理と場の倫理についてどちらの優劣も断定する気はない。むしろ、第三の道をひらくことに意味があると考えているが、これについて明確な答えを述べることは出来ない。」
「しかし、明確に言語化された答えを探そうとする限り、それはすでに、西洋の自我構造によることになり、西洋的な立場から自由になることは出来ないのではないかとも思われる。われわれは今のところ、隠喩に頼るより仕方がないのではないか。」
〇河合氏は西洋的な立場からは自由であるべき、と考えているようです。つまり、西洋的であってはならないと。
明確に言語化された答えであってはいけない、と。
自由になるべきは、「西洋から」ではなく、「愚かさ」からだと思うのですが、それよりも、日本的であることの方が重要だということなのでしょう。
怒ったイザナミは、「吾に見せつ」と夫を追うのであるが、ここに興味深いことには、見るなの禁を破ったことによる罪よりも、見られたことによる恥が強調されていることである。
これは、イヴが禁断の果実を食べたとき、禁を犯した罪が問われ、裸を見られることを恥じた部分はそれに従属的に扱われているのと好対照を示している。
あるいは、これは罪には恥が、恥には罪が伴うが、ある文化によってどちらか一方が強調されることを示しているとも考えられる。」
「アラキは高野山で尼になり、自分は自分の道を歩むことになる。そこへ、すべてのことが分かっている老賢者が出現する。」
「ここで救済に続く結婚のテーマが生ぜずに、女性が得度して高野山に向かう点が、西洋の自我確立の過程との著しい差異を示している。
しかしながら、それに続いて老賢者が出現し、職場への復帰に暗黙の合意を与えるのは、心全体の中心としてのセルフの存在が、自我を超えるものとして高い統合性を持つことを示唆している。
ここに、老賢者と主人公との交信は、ほとんど非言語的になされることも興味深い。
このように考えると、この夢は単なる日本的な職場への埋没を意味するものとは思われない。その背後に生じたアラキの女性の救済と老賢者による無言の承認の事実は、日本人の自我のあり方についても示唆を与えるものとして、重要な意味を持つと考えられる。」
〇「隠喩」は難しいです。どのようにでも、とれそうで。