読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

母性社会日本の病理

「日本人の自我について述べる前に、自我ということを明らかにしておかねばならない。そもそも、一体「私」ということは何なのであろうか。」


「自我は自分の主張を通す一方では、その文化や社会において伝えられている規範を身につけるいことを学び、このことがひと通りできると、自我はある程度の安定性をもち、その上は、彼を取り巻く文化や社会に継承されていることがらを吸収し、自らを豊かにすることに努力を重ねる。」


「しかし、それは今までのように、他から与えられたものを無批判に受け取るのではなく、自分自身の欲求やあり方と照合し、自らのものとして新たに受け止め直したものである。


このようにして、自我ができあがって来る過程をきわめて大まかに示したのであるが、ここで大切なことは、自我はその形成過程において、それを取り巻く文化や社会の影響を受けるということと、自我はあくまで完結していない常に変化の可能性をもった存在であるということである。(略)


そのような自我の不完全性を如実に示すのが神経症であるが、それの一例として対人恐怖の症例をあげてみよう。」


「彼は死を決意したとたんに、今まで自分の知らなかった力が湧いてくるのを感じた。(略)

ここで注目すべきことは、彼自身も対人恐怖に苦しんでいる時は、その内部に存在する可能性に気づかなかったという事実である。対人恐怖に苦しんでいた自我と、死を決意した後の強い自我と、どちらが本当の自分なのであろうか。(略)


心理療法に従事していると、このような例をよく経験するのであるが、このような事象を説明するために、スイスの精神医学者ユングは、自己(セルフ)という概念をたてた。」


「先の例によって説明すると、この学生が意識し得る、自ら知っている自我は弱く人を怖がるものであるが、それを超えた心の中心である自己は、自我を補償する強さを生ぜしめ、それによって、古い自我はその不完全性を克服して、より高い統合性をもった新しい自我に変化したと考えられる。」


「ところで、ユングが東洋の考えによって自己の概念をたてた事実に示されるように、今まで説明した線に沿って考えると、西洋人のほうが自我意識の存在に強調点を置いたのに対して、日本人は自己の存在を重視したように感じられるのである。」


「日本人の自我は西洋人から見れば、存在しているかどうか不明とさえ感じられるらしい。」



「われわれ日本人の自我は西洋人に比べてはるかに他人に対して開かれている。上司と部下が相談するなどといっても、時にそれは以心伝心のうちに、言語を用いずに同意に達するときもある。

それはつまり、ひとつの自立した自我と、他の自立した自我が言語的に交信し、一方が他方の志向に従うというパターンではなく、両者がひとつの方向を共有するのである。」


〇「忖度」という言葉が思い浮かびました。


「これは西洋の音楽の場合、指揮者というひとりの人格によって統制されるのと好対照をなしている。つまり、われわれは常に「我を殺し」、無我の状態にあるとき、それは極端に他に開かれたものとして、自分が勝手に演奏しているかの如く見えつつ、それは他と調和することになっているのである。」



「日本人は、その無意識内にある中心をしばしば、外界に投影し、それに対しては自分をまったく卑小と感じたり、絶対服従することになったりする。

つまり、自己は天皇や君主・家長などに投影され、そのためには自分の命を捨てることさえ当然と思うようになる。

自己の偉大さに比べて、単純に自我否定を行なうのであるが、その傾向がただちに命の否定へと拡大されてしまう危険が高いのである。」



「(略)日本人としても、特攻隊のような特殊な場合を除いて、だいたいは「……のために」という形をとりつつ、自分がその中に生きてゆく方策を講じている。

会社の為に、家のために、といいつつその中で自分の利益も考えてゆくのである。


だからといって、自分の為にということを前面に出すことは禁句である。日本では西洋流の個人主義はしばしば利己主義のレッテルを貼られるのである。


自己の存在は絶対性をもつことが、その特徴であり、自己の投影を受けたものの命は令は絶対性を持つことが要求される。」


「ところで、西洋流の自我の確立はどこに欠点をもつであろうか。それは、あまりにも確立された自我が無意識との関係を断たれて、その存在の基礎を危うくされることである。」


「日本人の場合は、人間関係の基本構造として、無意識内の自己を共有し合うものの関係として、無意識的な一体感を土台としている。これは、西洋人の場合の一人の「
個人」と他の「個人」が関係をもつという形態とは著しく異なるものである。」