「たとえば、坂口保「浦島説話の研究」においては、前述した古い伝説より現代の、小説家、武者小路実篤による「新浦島の夢」や、太宰治の「浦島さん」などに至るまでの、浦島の物語の変遷を丹念に追い求めている。」
「母親は浦島に嫁をもらえというが、浦島は稼ぎがないから嫁をもらえない。母がいる間はこのままで暮らすと答えた。つまり、浦島は母一人子一人の家族で、一人ものだったのである。」
「とうとう一匹の亀を釣るが、これを逃がしてやる。ところがこの亀がまた釣れ、結局は三度も逃がしてやる。」
「ヴィルヘルム・グリムは童話集注釈の1856年版に次のように述べている。「この童話集には、古代の暗黒の中にまでさかのぼる思想と直感とが含まれているという主張について、当時人々は我慢して微笑したものである。今では、その主張は殆ど反対に会わない。」
「つまり、この元型が人間の意識内に顕現したものが元型的な表象であり、人間はそれを体験するとき生き生きとした強烈な感情を味わう。」
これらの子どもはケレニーもいうごとく、決してその意義や力が少ないことを意味しているのではなく、むしろ神話の中で中心的な地位を占めている。」
「このような超越的な能力をもった子どものイメージを、われわれはわが国の昔話の中にも持っている。
「この点について、ユング派のメルヘン研究家フォン・フランツが、「昔話は海であり、伝説や神話はその上の波のようなものである」といっているのもうなづけるのである。」
「ところで、このような世界史的な規模で認められる、母と子の神話は、フロイトによれば、まぎれもなくエディプス・コンプレックスの反映と考えられる。」
「彼らにとっていちばんむずかしいことは、ひとつのことに持続的に打ち込むことである。(略)
時には、他人を感嘆させるようなこと_相当危険に満ちたこと_をやってみせるが、それに持続的に取り組むことはしない。危険性よりも忍耐のほうが数倍恐ろしいのである。」
「このような「永遠の少年」たちは話し相手としては、真に興味深い。楽しい相手であるが、仕事の協力者としてはもっとも信頼できぬ、ときには危険な相手ですらある。」
「彼らは女性の中に母なる女神を求め、次々と対象を探し出すが、それが単なる女にすぎないことが分かったとき、また、母なる女神を求めて、他の女性にむかってゆかねばならない。
あるいは、男性性がそれほども確立していない時は、同性との集団行動の中に安定を見いだしたり、同性愛的なパートナーを得ることによって満足する。」
「ユングによれば、退行とは心的エネルギーが自我から無意識の方に流れる現象である。」
「このあたりの亀の変身ぶりは素晴らしいと思うが、ここで疑問を感じることは、われわれが一般に知っている浦島太郎のお話では、このような亀の変身のテーマが消え失せ、亀の報恩という、もともとの話にはなかったテーマが付け加えられていることである。(略)
「中田千畝は、これを中国の「冥報記」における、陳の厳恭が亀を救ったために、亀に救われる話に根元を求めているが、おそらく、インドまで起源をさかのぼることのいる仏教説話であろうと思う。」
「物語は、母親との結びつきの強い男性の退行によってはじまったと述べた。この男性が母親との結びつきを断ち切るためには、ひとりの女、母親とは異なる魅力をそなえた女性に出会わねばならない。
あるいは、この話を無意識からの自立を確立しようとする自我のこととして見るならば、ある程度の自立をした自我は無意識界にふたたび分け入って、そこに母親像とは異なる女性像を見いだし、それとの関係を確立しなければならないともいうことが出来る。
「主人公の男性は、仕事はするが飯を食わぬ女が居たら嫁にしたいと虫のいいことを考えている。そこへ、自分は飯を食わないから嫁にしてくれと押しかけてくる女がいる。
そこで嫁にもらったものの、実はこれは山姥で、頭に大きい口があって、亭主の留守中にバクバクと飯を食い、それどころか亭主をさえ食ってしまおうとする。」
「亀と出会ったもう一人の少年、それはヘルメースである。ヘルメースはギリシアの神々の中で、その多様でパラドキシカルな性質の故に、特異な地位を占めている神である。(略)
このようにいって、ヘルメースは亀をもって、館の中へ戻っていったのである。そして、「そこで亀の身体を切り開いた」。つまり、彼はその亀から竪琴を作ったのである。」
「しかし、浦島は亀の化身の女に誘われるまま、その素性も知らずに従ってゆくのであるが、ヘルメースは全く逆に、亀を見た途端に「亀を見透かすのである」。」
「ところで、われわれの浦島はいつまでたっても、亀の本性を見透かすヘルメースにはなり得なかった。」