「「風土記」によると、嶼子が亀姫と結婚したことがはっきりと述べられている。ところが、われわれが一般に知っている浦島太郎の話では、浦島が乙姫と結婚したとは考えられていない。(略)
ここに、乙姫が結婚の対象として考えられなくなってくるのは、どうしてなのか、あるいはいつの時代頃からなのかという疑問が生じてくる。」
「このような中国からの影響に対して、高木敏雄は疑問を述べている。すなわち、仙女が亀となって浦島に言い寄るなどということは、清浄高潔な仙女のすることとは考えられないというのである。
「如何に浦島子の眉目秀麗に其神魂を奪はれしとするも、渇仰する数多の道志を棄て、亀と化して遥々と海中を潜り、丹波なる与謝の入り江に出現し、猥褻にも秋波を湛へて漁夫の歓心を哀求するが如き、到底了解すべからざる事に属す」というのだから、大した立腹の仕方である。」
〇「猥褻にも秋波を湛へて漁夫の歓心を哀求するが如き」って、つまり、恋愛は猥褻な秋波なのだと考えられていたのに、びっくりです。
「ここで、高木敏雄の憤慨がいみじくも示しているように、われわれ日本人は、仙女あるいは天女は、色恋とは無関係でなければならないという通念を持っているようである。」
「肉体性を否定し、結婚の対象としては考えることのできない美人の像といえば、われわれ日本人の心にすぐ浮かんでくるのは、かぐや姫のイメージである。」
「真奈井というところで水浴みをしている天女が八人いる。それを見たある老夫婦が天女の衣を隠すことにより、飛べなくなった天女を自分の養女とする。
この天女の働きにより老夫婦は金持ちとなるが、いざ金持ちになってしまうと、天女を追い出してしまう。天女は泣く泣くあちこちを彷徨い歩くが、もちろん天にも帰れず、結局、奈具の村に来てとうとう心がおさまり、そこにとどまる。
そして「斯は謂はゆる竹野の郡の奈具の社に座す豊宇賀能売命なり」ということで話が終わりとなる。
この話が特異と言ったのは、ここに白鳥の乙女に対する恋愛も結婚も生じないからである。外国の白鳥の乙女の物語と比較すると、この点が日本の特殊性を示していると考えられる。(略)
しかも、ひどい仕打ちを受けた女性を助け出す王子さまが現れるのでもなく、彼女はなんとなく心を平静にし、最後は簡単に神さまになっておさまってしまうのである。」
〇「善も悪もない」という教えに従えば、そうなるだろうと思います。でも、人びとは、本当に心の底で、それでいいと感じていたのでしょうか。
自然界の動物の世界は確かにそうです。人間もそれに倣おうと思っていたのでしょうか。
「もっとも、わが国の神話を見れば、男性の主人公が、女性を愛し、その女の父親の出す難題を解決しつつ結婚に至るという典型的な話も存在する。(略)
ここに注目すべきことは、この話の主人公も場所も、日本神話における主流には属してはいないことである。」
「われわれ心理療法家にとって、「他界」とは無意識界を意味し、患者とともにその無意識界にはいっていきながら、外界とのつながりを失わないようにすることは重要なことであり、この困難さを克服しないと浦島と同様の失敗を犯すことになる。」
「他界で食物を食べると現世に帰ってこられないという観念は、イザナミの黄泉戸喫の話や、ギリシアのペルセフォネ神話などにもみられるが、この男性がそのような点を心がけて、現実界とのつながりを失わなかったのは、見事なことと言わねばならない。
現実との関係を維持するためには、他界では決して食事をしないという持続的な意志力_プエル・エテルヌスにとってもっとも苦手とすること_を必要としたのである。
浦島はこの点で真に不用意であった。(略)
退行を創造的ならしめるためには、そこに新しい要素が出現し、主人公は努力を払わねばならないと述べたが、この点、浦島は努力が無さ過ぎたのである。
外界と内界、意識界と無意識界との区別が明白でないことも、日本人の特性のひとつではないかと思われる。そのひとつの症例として、浦島の帰還が歴史の記述の中に組み込まれているという事実がある。
それは、「日本後記」淳和天皇天長二(825)年の条に、「今年浦島子帰郷、至
今三百四十七年也」という叙述が認められる。」
〇 これは、びっくりです。なんだか悲しくなってきます。
「このような、外的現実と内的現実の容易な混合は、日本人の特性のひとつではないだろうか。」
さもなければ、あまりにも早く玉手箱を開いて老人のあきらめに至っている人。そして奇妙なことに、この心理的な少年や老人は、実際の年齢とは関係のないことなのである。」
「マザー・グースのうたを読んだ後に、一行「まったく ほんとに そのとおり」と、つけ加えると、それは前よりも重みを増して、われわれの腹の底にずっしりとはいりこむ。(略)
おかあさまがわたしをころした
おとうさまはわたしをたべてる
にいさんねえさんおとうといもうと
テーブルのしたでほねをひろって
つめたいいしのおはかにうめる
(まったく ほんとに そのとおり)
(略)
そういえば、私は子どもを食いものにして生きている両親に、ずいぶんとお会いしたものだ。他人を食いものにしながら、何食わぬ顔をしてそこいらを歩いている人がずいぶん多いのではないか。
いや、他人の事どころか、私だって今まで何人の人を食ってきただろう。一体どれだけの墓石を、自分が生きてゆくために積み上げてきたことだろう。」
「いくら自由連想といっても、本当にやってたら身が持たない。人間はもともと、まったくの自由に耐えられるほど強くはないのだから。」
「日本のわらべうたの非常に多くは、まりつき、とか、お手玉のような遊びと結びついている。つまり、それは何らかの体の運動とともになされるものである。
普遍的無意識の領域は身体の領域と分かちがたい。(略)
とすると、そのような領域における動きを、なんとか意識によって把握し言語化したものがマザー・グースであるとするならば、むしろ、そのような内容を身体的に把握し、その運動に随伴するものとしてあるのが、わらべうたであると考えることが出来ないであろうか。」
「わが国における禅_これも一種の心理療法といった見方が可能と思う_が、姿勢や呼吸など体を調えることによって心を調える方法をとっているように、日本人はむしろ身体を通じて、普遍的無意識の内容を文字通り体得することに長けていたのではないかと考えられる。」
「しかし、これは考えて見ると実に大変なことだ。上澄すくいのうちはいまだ無難であったが、このような根っこのぶっつかりを経て、われわれは一体どこへ行くのであろう。(略)
たくさんのものをかかえこんで、われわれはそれをうまく自分のもととするほどの強さをもっているだろうか。」