「私はいつも自分が担当する子どもたちに何を期待しているかをはっきりさせようと意識していた。同僚の中には子供たちの自我の脆弱さを主張して、私の子どもたちへの率直さをいぶかる者もいた。
だが私はそうは思わなかった。たしかにこの子たちはみんな悲しく、踏み躙られた自我を持っているけれど、誰一人として脆弱ではなかった。
それどころか反対だった。彼らのほとんどがあれほどの苦境をくぐりぬけて、いまいるところまでやってこれたということこそ、彼らの強さの証明ではないか。
そうはいっても、彼らはみんな混沌とした人生を歩んでおり、情緒障害という性質から他人の上にもその混沌を持ち込んでいた。
私が彼らに何を期待しているかを彼らに考えさせようとして、これらの混乱の上にさらに混乱を持ち込むようなことをする権利は私にはないと思っていた。
役割とルールをはっきりさせることはどの子を相手にするときでも有効で生産的な方法だった。
そうすることにより、私たちの関係のあいまいさを無くすことができるからだ。」
〇この文章は、この前回のシーラとの「対決」のあとにすぐに続く文章です。
ここを読んで思い浮かんだのは、あの河合氏の「中空構造日本の深層」の中に言葉です。
「つまり、何かを中心におくかのように見えながら、その次にそれと対立するものによってバランスを回復し、中心の空性を守るという現象が繰り返し繰り返し日本神話に生じているのである。(略)
つまり、どちらか一方が優位になってしまうことはなく、必ずその後にカウンターバランス作用が生じるのである。」
この状態の中で、人間が自分の態度を決めるのは、本当に難しい…。
とりあえず、場の倫理に従い、「みんなそうしているから」ということで
態度を決めるしかなくなります。
例えばいじめを考えて見ます。
なぜいじめられている子を誰も庇わないのか。
みんながそうしているから…。
例えば、大企業などでの不正経理を会社ぐるみで隠ぺいするなどということも、
頻発していますが、それも、
みんながそうしているから…。
しかも、子供には「嘘は良くない」「いじめは良くない」と言いながら、
一方で、場の倫理が日本の倫理なのだ、善も悪もないという仏教の教えが日本的な態度なのだと、あいまいなままの態度を改めない大人。
どのルールに従うべきなのか、まったくわからないままで、
(右と左に同時に行け!という命令を出されているようなルールです)
しかも、神も仏もいない世界で、赦しもなく、
自分の道を決めることを求められるのです。
これでは、大人の入口で混乱の極みに陥り、大人になれない人間が出ても当然だと思います。
そして、ふと思ったのですが…
あのオウム真理教の事件、あれも、もし仏教が「善も悪もない」ことを教える宗教なら、あの犯罪すら、悪ではなくなる…。
もし、自分たちが権力をにぎり、「良い仏教国」を作るためなら、多少の悪も
しょうがないと考えたのか…、
今の安倍政権も、そんな小さなことに関わってはいられないと、森友も加計も、その程度の犯罪は、悪ではないみたいに言ってました。
すべて、個人的な「妄想」です。すみません。
「「あたしをしゃべらせることなんかできないから」シーラがいった。
私は赤ペンを探しながら、プリントを繰り続けていた。いい教師である四分の三はタイミングにかかっている。」
「「あんたなんかきらいだ」
「べつに好きじゃなくてもいいのよ」
「だいきらい」
私は答えなかった。この言葉に対しては答えないでおくのが最良の策だと思っていたからだ。」