読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

シーラという子 _虐待されたある少女の物語_

「私と子どもたちとの間でいい合いになって、どちらか一人、あるいは両方ともが怒ってしまったときなど、子どもは日記がその気持ちのはけ口になることを覚えて行った。

そんなわけで、子どもたちはほとんど毎日日記を書き綴っていた。」



「それでも私が二枚目の紙を渡すと、もう一度とりくんだ。筆記問題にとりくむシーラがまだとても自信なげだったので、私はまちがっていてもいっさい指摘しなかった。」



「彼女には、学校の問題用紙の山で人間の価値を量ることなどできないのだ、ということを知ってもらう必要があった。」


「子供たちは十一月にも、私がワークショップに出席しなければならなかったときに代用の教員と一緒に過ごしたことがあった。その時は一日だけだったし、前もって子供たちに心の準備をさせておいたので、すべてうまくいった。


子どもたちがこのようにして自立する練習をすることはとても大事な事だと私は考えていた。


私と一緒にすごしてきたこの何か月かで、子どもたちがどれだけ進歩したとしても、彼らが私のいるところで頼りきって生活しているだけでは何の役にも立たない。私は私よりずっと優秀な教師たちがこの問題のために失敗するのを何度も見てきた。


そして私もまたこの問題でつまづくのではないかという思いにとらわれていた。私が心配していたのは、同じ分野の教育を担っている多くの教師に比べて、私が子供たちとより親しい、より強固な関係を持とうとしていたところにあった。(略)


とにかくあらゆる機会を利用して子供たちに私がいなくてもやっていけるようにと考えていた。」


「「もうぜったい、トリイのことなんか好きにならない。トリイがやれっていうことを、もうぜったいやらない。すっごい意地悪だ。あたしがトリイを好きになるようにあたしのこと飼いならしておいて、それからいっちゃうなんて。

そんなことしちゃいけないんだよ。おかあちゃんがしたことと同じじゃない。そんなこと小さい子供にしちゃいけないんだよ。
小さい子を置いて行っちゃったら牢屋に入れられるんだよ。おとうちゃんがそういってるよ」

「シーラ、そういうこととは違うのよ」


「トリイのいうことなんか聞かない。もうトリイのいうことなんか、ぜったい聞かないから。あたしはトリイのこと好きだったのに、トリイはあたしに意地悪をした。

あたしを置いて行っちゃうんだ。そんなことしないっていったくせに。自分が飼いならした子供にそんなことするなんて、すっごく悪いことなんだからね。そんなことしらなかったの?」」


「私の心の大部分を占めていたのは、他のことはなんでもわからせることができたのに、私が彼女を見捨てるわけではないということを説得できないための欲求不満だった。」



「大会は二月でも気候の温暖な西海岸の州で開かれた。チャドが一緒に来たので、私たちはほとんどの時間を波打ち際を歩きながら海岸で過ごした。すばらしい気分転換だった。」



「私の心は重く沈み込んだ。私の中で、気持ちの汚水だめのようになっているところが、ゴボゴボとみじめな音をたてた。私がいない間、彼女はちゃんとしていてくれると、私はほんとうに信じていたのだ。

自分がそんなにひどく判断をあやまっていたのかと思うと胸が痛んだ。自分が個人的に侮辱されたような気がした。彼女を信じていたのに。彼女がちゃんと行動してくれるとあてにしていたのに、シーラは私を裏切ったのだ。」


「彼女の冷たい、よそよそしい目を見ているうちに、怒りがこみあげてきた。突然たまらなくなって、私は彼女の肩をつかみ、乱暴にゆすった。「いいなさいよ!いいなさいったら!」だが、彼女は心を閉ざし、歯をむき出した。

自制心をなくしたことにぞっとして、私は彼女の肩から手を離した。ああ、この仕事は私には荷が重すぎるようになってきている。」



「彼女は明らかに自制心を失っていた。床に身を投げ出すと、今度は頭をどんどんと床に打ち付け始めた。アントンがとんできて、この自損行動をやめさせた。

シーラはいままでこんなことをしたことは一度もなかった。」


「昼休みの頃には、私は完全にうちひしがれていた。自分でも教師として欠けていると自覚しているところをさらけ出すはめになったために、シーラに対して怒っているのだということに気づき始めていた。」


「このことに気づいて、私の気持ちはさらに落ち込んだ。なんてくだらない、自分勝手な嫌な人間なんだろう。自己嫌悪に陥り、世界中を憎みたくなった。最悪の気分で、現状をどう回復していいのか考えることも出来なかった。」


「そもそもだからこそ彼女はこの教室に来たのではなかったか。それでは私はどうだというのだ?私がここにいるのも、その理由からではなかったのか?

今日は彼女が私を信用してもいいのだということを確認するすばらしい日にすべきだったのに。私は約束どおり戻ってきたのだから。それなのに、私はあの子に怒鳴ってしまった。

そしてあの子が楽しみにしていたものをとりあげてしまったのだ。そんなことをされるなんてあの子は思ってもいなかったのに。なんで教職になどついてしまったのだろうか?」


「そして悲しいことにこう悟ったのだった。私たちが自分以外の人間がどんなふうであるかをほんとうに理解することは決してないのだ、ということを。

そして人間はそれぞれちがうのに、浅はかにも自分は何でも知っていると思いこみ、その真実を受け入れることができないということも。特に相手が子供の場合はそうだ。

ほんとうのところは決してわからないのだ。


シーラは立ったまま、オーバーオールの肩紐をいじくっていた。「もう一度あの本を読んでくれる?」
「どの本?」
「キツネを飼いならした男の子のお話」
私はにっこりした。「いいわよ。読みましょう」」


〇「私たちが自分以外の人間をほんとうに理解することはない」という言葉を見て、
つい最近、これと同じ言葉を読んだ記憶がある、と思いました。

あの、苦海浄土の最後に、解説の人が書いていた言葉でした。

石牟礼道子さんは、子供の頃、認知症?のおばあさんの面倒をみる役割を与えられていた。その経験の中で、人間が他の人間をほんとうに理解することの困難さを身をもって、知っていた。

その諦念のようなものがあったので、この苦海浄土の中に登場する人々を描くことが出来たのではないか」というような言葉でした。(本を返却してしまい、手元にないので、正確な言葉をメモすることが出来ません。いつか、またこの部分を訂正することがあるかもしれません)

この「本当に理解することができない」という気持ちが、理解に一番近いところにいる人の口から出る、というところに、このトリイさんと石牟礼さんの共通項がある、と思いました。