「「週刊新潮」の結論は、戦場に横行するさまざまのほらを浅海特派員が事実として収録したのであろうと推定し、従って、ほらを吹いた二少尉も、気の毒だが、一半の責任があったのではないか、としているように思う。非常に常識的な考え方と思うが、果たしてそうであろうか。
戦場というところは、われわれの常識では実に判断しにくい場所である。そんなことを何やかやと考えているうちに、私はここでまた偶然にも、戦場に渦巻くさまざまなほら・デマ・妄想・幻覚と、それを生みだした背景を思い出す結果となってしまった。」
「従って私に出来ることは、そういうほら・デマ・妄想を生みだした外的条件を出来る限り思い起こし、能う限り正確に書き記すことであろう。」
「今ではもう想像もできないであろうが、日本軍というのは、そのほぼ全員が二本の脚で歩いていたのである。もちろん例外はある。(略)
この広大さに比べれば、たとえば東京の師団が京都まで進撃して、そこで戦闘開始になるなどということは、いわば最短距離である。しかしものはためしで、この距離を炎天下に徒歩で強行軍をしたら、どんな状態になるか想像してほしい。
しかも全員が完全軍装である。自分の衣食住は全部背に負い、その上、銃器・弾薬・鉄帽・水筒・手榴弾等をもち、有名な「六キロ行軍」をやったら、いわゆる戦後派の、体格だけで体力なき人々などは、戦場の京都につく前に全員が倒れて、戦わずして全滅であろう。
「六キロ行軍」とは、一時間の行軍速度が六キロの意味だが、これは小休止、大休止を含めての話だから、大体が駆け足になる。演習では一割から二割は倒れることを予定してやるわけだが、戦場では落伍兵はゲリラの餌食だから、「死ぬまい」「死なすまい」と思えば、文字通り蹴っ飛ばしても張り飛ばしても歩かせなければならない_これは「活」であって、前に書いた私的制裁とは根本的に違う。」
確かに、日本軍は、人類史上最大にして最後の「歩兵集団」であったろう。「歩く」ということを基礎にした軍隊が、東アジアの全域に展開するということ自体が、いわば狂気の沙汰である。
従って歩かされている全員が、心身ともに一種の病的な状態になっているのが当然である。
こういう場合、最初に起こるのが幻聴であり、いわゆる「幻の銃声」である。」
「さらに輓馬隊を苦しめたのが瘭疽である。(略)この痛みは全くひどいもので、歯痛の比ではない。疲労困憊しているのに寝られないほど痛むのである。」
「こういうひどい外創のほかに、ほぼ全員が消化器不調であり脚気気味であった。大体が慢性的な下痢である。一因は過労とビタミンの不足であろうが、最大の誘因は「水」であった。(略)
絶対に生水を飲むなと言われても、炎天下の行軍の喉の渇きは、どんな頑健な人間でも耐えられない。」
「馬の飲む水量は人間の比ではない。(略)しかし馬に十分水をやらないと、疝痛という病気を起こす。一言でいえば馬の便秘だが、馬は吐くことが出来ないので、これを起こしたら最後なのである。」
「こういう時に、もしだれかが勤労奉仕で水を運んでくれたら、それだけでその人たちを命がけで守ろうという気になっても不思議ではない。
中国のある村長さんが、日本軍というのは水さえ汲んでやれば絶対に害を加えないことに気づき、輓馬隊が来れば村民総出で水をくんでやり、そのかわり部隊長に一筆書かしたという話を聞いたことがある。(略)
こういう証明書をもっている人はフィリピンにもたくさんいたが、戦後には、この証明書を逆用されて絞首台に送られた日本人もいる。」
「水飼の苦役が終わると、一部のものは馬糧受領、飼付、飯盒炊さんにかかる。「日本軍敗北の原因は飯盒炊さんにあった」と言った人があるが、私も、少なくとも大きな原因の一つだったと思う。(略)
しかし科学的になったはずの今の日本ですら「百人斬り」が事実で通るのだから、当時の日本人が、「飯を炊き、歩きながら、近代戦が行える」と信じていたとしても不思議ではない。」
「しかし、人はまだよい。馬となるとお手あげである。馬の一日の排泄量は、普通の人の想像よりはるかに多い。行軍中は道に落としてくれるのだが、夜間は一か所にたまる。その量たるや、内地で厩当番をやった経験者ならだれでも知っていることだが、一個中隊で大体、大八車に三台ぐらいになる。」
「昔何かで「やぶ蚊責め」という拷問があったという話を聞いた。(略)実際、それにもまさるこの「総害虫責め」は、まさに拷問といってよい。」
「ところが、これらは日本軍の基準では普通の状態で、戦闘という極限状態でもなければ、敗退・全滅という最悪状態でもない、日常の行軍なのである。しかし世界的水準で考えれば、当時の世界でも、この状態そのものが、到底考えも及ばぬ残虐行為だったのである。
それは「バターンの死の行進」によく表れている。炎天下の強行軍で、米比軍の降伏部隊がバタバタ倒れた。「なぜ車両を使わず、かかる想像に絶する残虐行為をしたのか」というわけで本間中将が銃殺刑になったわけだが、日本軍の基準ではこれが普通の状態で、日本兵自身が炎天下にバタバタ倒れながらの強行軍を強いられていたわけである。
従って当時の日本軍の将軍たちは、当時の世界的基準で見ても、全員銃殺刑にされて然るべき残虐な行為を、日本軍の兵士に対して行っていたことになる。」
「普通の生活をしている人が突然こういう状態に突き落とされれば、発狂しても不思議ではない。しかし実際はそうはならない。これは強制収容所と同じであって、人間には、驚くべき適応力がある。
しかし適応しているということは、異常になっていることなのであって、まずはじめることが、無意味な苦痛を無理に意義づけることである。簡単にいえば、強制労働なら耐えられなくても、同じ労働量がエヴェレスト登頂なら耐えられるのと同じで、そこで、そういう心理状態に無理に自分を持って行こうとする。
「妄想の世界になかば意識的に「遊ぶ」のなら、いわゆる残酷映画・ポルノ・低俗番組・低俗記事がある。(略)
そしてその内容が、今のそれらよりさらにさらに低俗で、残酷で、荒唐無稽なのは言うまでもない。」
「話は横道にそれたが、私も、最後の引揚船で内地についたとたん、その目にうつったのは、巷に氾濫する「アメリカ軍聖兵士神話」の記事や写真だった。これは「アパリの地獄船事件」の体験者には、全く鼻持ちならなかった。
聖兵士神話がすべて神話にすぎないことは、一般社会を見ればすぐにわかるはずである。」
〇それは確かにそうだと思います。兵士にも、いろんな人がいるでしょう。
「現実のあまりの苦しさから逃避するため生み出されたほら・デマ・妄想が、今度は逆にそれを生みだした人間を、妄想へ妄想へとかりたてていき、ついに実際の行動まで起こさせて、その人たちを自滅させてしまう_以下に記すのがこの一例、すなわち最悪の条件、ジャングル内で起こった出来事である。」
「この状態の中で、だれ言うとなく一つのデマがとびはじめた。ジャングルを超えて東海岸に出れば、日本の潜水艦が救出に来てくれていると。また別のデマでは、東海岸で筏を組んで乗れば、沖合を黒潮が十二ノット(?)の早さで北へ流れているから、一週間で台湾につくと。(略)
これがさらにエスカレートし、内地に無事に到着した者がいるというまでになった。(略)しかし落ち着いて考えてみれば、そんなことがあるはずはないし、第一、内地に無事に着いたものが、「無事つきました」とジャングルに連絡できるはずがない。」
「H中尉は諦めたらしく、そのまま出発した。その中に数日前まで私のところで居候をしていた一軍属がいた。彼は私に挨拶して、ついて行った。」
「彼らが出発したのは七月の下旬だったように思う。」
「私たちは終戦を知らなかった。八月十七日だったと思う。私の目の前に一人の人間が立った。(略)
この彼こそ、H中尉とともに東海岸へ行った軍属だったのである。幽鬼という言葉そのままであった。完全な無感動と無反応。彼を動かしているのは「かゆみ」だけであった。(略)
ただ一つ確かなことは、H中尉以下三十人は全滅したであろうこと…(略)」
「「文芸春秋」の一文が機縁で、私よりはるか南のジャングルにいたM大尉から手紙をもらったが、そこでも「東海岸へ」という妄想が現実のように語り合われ、ついに脱走して東海岸へ行こうとする者まで現れた。(略)
それを諄々と説いて、「死への脱走兵」を出さなかったことだけが、私の唯一の功績でしょうと氏は書いておられた。
大変なことだったろうと思う。終戦直前の内地のことは知らないが、やはり同じように、デマと妄想が横行し、それを否定する人間が逆に反逆者のように見られたのではないであろうか。戦争がもう少し長引けば、M大尉を殺してその部隊全員が東海岸目掛けて歩き出す、と言うことになったかも知れない。これは、当時の日本全体の姿かも知れない。今はどうか知らないが…。」
「全く間髪入れず、この軍属が人肉を食ったというデマがとんだ。その描写はすぐさま生々しいほど具体性をおび、彼の口から直接聞いたという者もいた。カニバリズム(食人願望)は、心理学的には面白い問題であろう。だがこれはもちろんデマである。殺されて食われるなら、あらゆる面から見て、まず彼が最初のはずである。」
「_考えてみれば、これは典型的な娯楽的デマだったのである。佐藤氏は確かにある時代のスターであった_たとえそれが悪役にしても。」
「だが、そういう意味での「虚像=隊長」への信頼も崩れ、あらゆる意味の「東海岸」もだめ、娯楽的ほらを吹き合う一瞬の解放感を持ち得なくなったら人間はどうなるか。
人は私の言うことを信用しないかもしれないが、「占い」だけにたよるのである。
ジャングルや収容所で流行したのが「コックリさん」だが、この「コックリさん」の指示通りにジャングルを逃げ回り、ついに「横井さんの幸運」をつかみ得ずに死んだ人を私は知っている。
「以上は横井さんの例も含めて、戦場のほらのうち自然発生的なものだが、この他に兵士の意識的な「悪ふざけ」と「からかい」もある。心理的には無理もない死、これも彼らにとっては一種の娯楽と思うが、特に民間人へのそれは相当にひどい。
だがこれらはまた別の機会に譲ろう。」
「(注)以上の記述は昭和四十七年八月のことで、小野田さんのことはほとんどすべての人が忘れていた時のことであった。その後小野田さんが救出され、多くの記事がマスコミをにぎわした。だが私は小野田さんの「手記」をも含めて、それらの記述を基にして、この一文を書きかえようとは思わない。」
〇最後の最後に何に頼るか…
多分、ここに書かれているような苦難やそれ以上のことは、西洋人も長い歴史の中で経験しているのだろうと思いました。
その挙句の、「真理」への拘りではないかと思ったのですが。
だからこそ、「真理」「真理」と突き詰めて考えた。
私にはそう思えるのですが…。
人間が「自然に」「動物としての人間らしく」振舞った時、
このようになる、という実例を挙げてくれています。
そして、最後の最期に頼るものは「コックリさん」というのでは…。