読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

私の中の日本軍 上 (「トッツキ」と「イロケ」の世界)

「このことは大きく見れば戦後有名になったインパール作戦における牟田口司令官と小畑参謀長の対立にも関係する。輜重出身で補給の権威といわれた小畑参謀長はあくまでインパール作戦に反対する。


これに対して牟田口司令官は小畑参謀長を罷免しても作戦を強行する。事実かどうか知らぬが、これに対して小畑参謀長は「神がかりの司令官の下では云々」の一言を残して去ったという。これを聞いて歩兵出身の牟田口司令官が何と言ったか知らないが、おそらく腹の中では「フン、輜重あがりの腰抜けめ……」と呟いたであろう。


こう書いてくると牟田口司令官が異常な人間のように見えるが、私の知る限りでは、当時は、いやおそらく今も牟田口司令官のような型が普通で、小畑参謀長のような人は例外だったのである。」


「この「神がかり」に対する態度は四つしかない。「長いものには巻かれろ」でそれに同調し、自分もそれらしきことをしゃべり出すか、小畑参謀長のように排除されるか、私の部隊長のように「バカ参謀め」といって最後まで抵抗するか、私の親しかった兵器廠の老准尉のように「大本営の気違いども」といって諦めるかである。(略)


事実、補給の実務に携わっているものから見れば、大本営自体が集団発狂したとしか思えないのが当然である。(略)


それがどういう結果を招来したか。悲劇はインパールだけではない。」

〇補給しなければ食料も水も燃料もなく、人間(兵隊)がどうなるか、きちんと考えて、それでも、その道を選ぶ、というのであれば、気ちがいじみてはいるけれど、その当時はそれしか出来なかったのだろう、とわかる部分もあります。

人間は、そう考える動物なのだと思います。


わが国の大本営は、一番トップの人の判断は、おそらくそうだった(どれほど甚大な被害が出ても、いちかばちかで、活路を開くしかないと考えた)のではないかと思います。

そして、それをするためには、国民をうまくコントロールする必要があった。

そう考えないものは非国民という空気を作って(その方が罪の意識を持たず、やりやすい)あたかも、それに反対する者は、戦争に勝とうとしている国民の足を引っ張るもの、という雰囲気にして行った。

自分たちがそんな風に、人をコントロールするための詭弁を使っていることで、人間はコントロールし合うもの、という感覚になり、相手もそうだと思うようになる。

そこには、もうあの「正直に互いの意見を言い合ってものごとを打開していく」という「アレンジメント」(河合隼雄著「母性社会日本の病理」)2018/3/7(水) 午前 10:49の可能性はなくなります。

「大切なことはこのようなアレンジメントが存在すること。そして、それにかかわった人たちがアレンジするものとしてではなく、渦中において精一杯自己を主張し、正直に行動することによってのみ、そこに一つのアレンジメントが構成され、その「意味」を行為を通じて把握し得るということであろう。(母性社会日本の病理)」

私は、これが一番の問題だと思うのです。
本来は、国中の力を結集して困難に立ち向かわなければならない時に、
互いに相手をコントロールするために、ウソをつき合い、騙し合い、力が小さく小さく分断されていきます。

ちょうど、イソップ物語の川の水に向かって吠えて、獲物を落す犬のような愚かな姿です。



あの「苦海浄土」でも、水俣町の存続のためには、「会社」(チッソ)の存続は絶対に必要なことだと、多くの水俣町民は考えました。被害者がどれほど苦しんでいても、むしろそれを言い立てることは、自分たちの幸せの邪魔をするものだと。


そして、あの3.11の時、福島県民、日本国民の中にも同じようなことが興りました。

放射能の被害がどれほど予想されても、福島の作物を危険視することは、血も涙もない国民のすることだと。みんなで、被害の苦難をわけあおう、と。

そして、線量が下がらず、危険が予想されても、お国のためには補償など主張せず、大人しく故郷に戻って、街の再興のために尽力するのが、絆を大切にする日本人ではないか、と。

このような考え方が、当時の日本軍の「バカ参謀」や「大本営の気違いども」を支えて、国を亡ぼす戦争を可能にしたのだと思います。

そのようなやり方で、本当に「活路」は開けるのか。
国民を傷つけ、バタバタと殺すようなやり方で、実際に活路は開けたのか。

結果がしっかり見えたのが、太平洋戦争だったのではないでしょうか?
なぜ、そこから学ばないのでしょうか。
なぜ、何度でも同じことを繰り返すのでしょうか。


今も、「バカ参謀」や「大本営の気違いども」が権力を持っています。
それを支える国民もいます。

なぜなのか…




「「私の(行った)島は……アンガウルという小さな島でした。そこに初めは日本兵が千三百人行ったんですが、食糧も水もなくて、結局一カ月で百五十人ぐらいしか生き残れなかったんです」(略)


「一カ月も水や食料がありませんから、水のかわりになるのは…小便ぐらいのものだったんですが、しまいにそれも出なくなりました。食物はカエルやヘビをつかまえて食べました。」(略)


実情は、すべてがアンバウル島であった。ニューギニアやフィリピンの戦死者を克明に調べてみればよい。「戦死」とされているが実は「餓死」なのである。」


大本営の気違いども」といった言葉は、戦後のいわゆる軍部批判と同じではない。彼らがこれを口にしたのは戦争中であり、時には激戦のさなかであって、そこには非常に強い実感の裏打ちがあり、同時に気違いに殺される者に似た諦めがあったのである。」



「だがこういう言葉は、戦争中は軍のお先棒をかつぎ、戦後一転して軍を罵倒しはじめた人たちの言葉とは別である。そこにいる人間はみな、累々たる餓死死体の山から、かろうじて生きて出てきた人々であった。


彼の言葉の背後には、補給なしで放り出されて餓死した何十万という人間が、本当に存在していたのである。そしてそこには、肉親を肉親の気違いに殺された者がもつような、一種の、何ともいえぬやりきれなさがあった。」


「<「弱点、欠点を(下から上へ)報告すれば、かえって上の方から大変怒られますから、成績を報告するだけになります。いちばんひどかったのは人民公社初期のころで、そのときのやり方は、いよいよ収穫になると、ほかのところの稲をみんな集めてきて移すのです。

そして、他のところから植えられたみかけだけの豊作田は、他の人民公社の人々に見せられる。ある人はこんなことはいけないんじゃないかと思っても何もいえない」

私は黙っている人を非難する気にはなれない。批判がましいことをいえば、「大躍進を妨害する反革命分子」という三角帽子をかぶせられ、恐ろしい人民裁判が待っていることを知っているからだ>(略)

しかし、これが大日本帝国陸軍の”大躍進時代”の実態ですというのなら、いつでも「その通りでした」といえる。」



「「トッツク」とはこの状態をしめす軍隊語だが、これを今日の日本語に訳すことは不可能であろう。ただこの言葉の示す実態なら、後述する通りである。(略)


「弱点、欠点を下から」すなわち砲兵隊から、「上へ」すなわち司令部に報告し、しかも報告している人間も「下から」すなわち見習士官から「上へ」すなわち少佐参謀へという形になれば、たちまち徹底的にトッツカレルのである。


ドロガメにつかまる。「ナニー、ウン、砲兵隊か。砲兵隊の戦備はドーナットル!何をグズグズシトル」「実は測角器材が皆無なため、何も手を付けられない状態でありまして……」


ここまで言えばもう先は明らかであった。「ナニッ、器材ないから戦備ガデキント、貴様ソレデモ国軍の幹部カッ……」に始まり、後は罵声、怒声、殴打、足蹴である。


前に「正直なところ背筋がゾクッとした」と書いたのは、反射的にこの情景が脳裏に浮かんだからである。



高木俊朗氏がビルマ戦線における花谷中将のこういった異常な状態を書いておられる。だれでもかでも殴りつけ蹴倒し、「腹を切れ」といい、連隊長でも副官でも兵器部長の大佐でも容赦しない_だがあれを読んだ人が、花谷中将という人だけが異常だったと考えればそれは誤りである。

ああいうタイプの人間は、中将から上等兵に至るまで、到るところにいた。そして不思議に主導権を握る。同時にその被害を受けた者は、それらしき影を垣間見ただけで、一種、動物的ともいえる反射的な防御姿勢をとるようになる。

横井さんの異常な興奮の背景に見える日本帝国陸軍のもつ一つの体質がこれであると思う。そしてこの二つは、実は同じなのである。」


「この防御姿勢は、「俺だって白兵戦をやったことがある」という形にもなれば「一心不乱に戦闘準備をしております」というジェスチャーにもなる。このジェスチャーを軍隊では「イロケ」といった。」


「実際、このイロケぐらい、兵士にも下級幹部にも耐えられないものはなかった。「一生懸命やっております」「大いに成績をあげております」というジェスチャアーのため、全く無駄な重労働を部下に強いる。」



「この「上からトッツキ」と「下からイロケ」で構成される世界は、外部から見ているとまことに一億一心、まさに鉄の団結であり、一糸乱れぬ統制の下にあるように見える。私はいわゆる無条件の中国礼賛者には、2つの種類があると思う。


その一つは、たとえば内藤誉三郎氏のような人で、いわば戦争中の一億一心滅私奉公を一方的に七億一心に投影し、「中国は大した国だ。戦争中の日本のように国民は一糸乱れず生活している」というような言葉が出てくる人である。


全く冗談も休み休み言ってほしい。戦争中の日本で、その象徴ともいえる「大日本帝国陸軍」の実態、あの「トッツキ」と「イロケ」の秩序の実態が、まだわかっていないのだろうか…

それが分らず、これを「一糸乱れず」と見うるこういう人たちは、生涯常に「トッツキ」側にいたに相違ない。」



「_この「人海作戦」を高く評価できる人、またこの言葉を無神経に口に出来る人は、この経験がなく、この有様を見たこともないに違いない。「対住民折衝」という部隊長の言葉で背筋に戦慄がはしったのは、いずれは現地人を強制徴用して、砲弾輸送の「人海作戦」となる恐れがあったからである。」


「私は戦後、アイザンハワーの参謀長、軍隊始まって以来の名参謀長といわれたベテル・スミス中将が、全くの無学歴将校で一兵卒から叩き上げたときいたとき、日米両軍の差のあまりの激しさに驚いた。


日本軍では絶対に考えられないことである。敗戦は、武器の不足などという単純なことが原因ではない。」


「これはもちろん私が迂闊で呑気なせいもあるが、もう一つは軍隊的表現の奥にあるものがつかめなかったからであろう。部隊長や老准尉のように、lこの道何十年というベテランになると、一種の嗅覚のようなものがあって、私が何の感慨もなくつるつると読んでしまう一片の通達から、自分への死刑の宣告文に等しいものを嗅ぎとるのである。」


「人間はどこで生活しようと、衣食住と排泄は欠かすことが出来ない。
戦争中の軍人像は、いわば「軍神」に象徴されるような超人に描かれ、戦後は一転してこれが血に餓えた怪獣の如くに描かれているが、スーパーマンや怪獣は、元来は子どもの空想の中にしかいないはずである。


従ってこういう像は、教育ママから精神的に離乳していない記者と読者の間に、はじめて生存しうるものであろう。」


「俗に「一ラッパ、二ヨーチン、三テッチン」といわれ、これが怠け者の順位のように言われた。テッチンとはテッチン工の略で、蹄鉄公務兵の俗称、ヨーチンとは衛生兵の俗称である。いわば仕事をするふりをして、工場でサボっているという印象が強かったわけである。」


「なにしろフィリピンは、戦前は、包み紙の古新聞までアメリカから輸入していた国である。輸入がとまれば釘一本、針一本までなくなってしまうし、器用な日本人ならだれでもできるような、実に簡単な修理の技術さえもっていない。」


「こういう通達は問題外としても、元来軍隊というものは「宣撫」なしでは存立しえないものなのである。問題はその宣撫の方法だが、これがドロガメ参謀のような人だと住民を半ば強制的に集めて「八紘一宇」の大演説でもやるという文革派的「工作」と「学習」になるわけだが、


私の部隊長のような実権派になると、こういうことを頭から笑殺して、住民の生活に密着した便宜をはかってやることが、最高の宣撫工作と考えるわけである。」



「確かに雰囲気も違い、気分的にも楽で、また役得もあったが、しかしS軍曹以下が普通の兵士の三倍も四倍も働いていることはだれも認めないわけにいかなかった。(略)


細部は省略するが、いずれにしても、本格的戦闘が始まる前に、その全員がすでにこの世にいなかった。それほど犠牲の多い仕事だったのである。それでも、もしあのうちの一人が横井さんのように奇跡的に生きて出てきたら、おそらく同じような手紙が来るであろう。

「お前なんぞは、モグリの工務兵のくせに……」


これが最初にのべた日本軍の、文字通り「上将帥ヨリ下一兵卒ニ至ルマデ」もっていた病的ともいえる体質であり、この体質が、牟田口司令官を、花谷師団長を、そして「大本営の気違いども」と「バカ参謀」を生みだし、同時に同じそのものが「百人斬り」という虚報を生みだした、と私は考える。


私はこの記事を書いた人間は、あの「ドロガメ参謀」や、ある種の新聞記者と非常に似た頭脳と神経の持ち主であろうと思う_以上が「百人斬り」の背景、すなわちそれを解く第一のカギであろう。

これから第二、第三へと進もうと思うが、この背景のことは常に念頭に置いてほしい。」