読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

私の中の日本軍 上 (戦場の「定め」と「常識」)

「戦後、「中野学校」も大分、伝説化されたが、小野田少尉ははっきり本名を名乗っているのだから、いわゆる「諜報」とは関係あるまい。
 
 
戦局が悪化してから、諜報関係者も現地で招集されて各部隊に配属されたり、また偶然に知り合ったりして、二名ほど知っているが、こういう人たちの日本名は、果たして本名なのかどうかわからないし、招集されるまでどういう仕事をしていたのかも分からない。
 
 
そういうことは一切聞かないのが軍隊の常識である。従ってこれらの人々のやったことは、本当に「闇から闇」であって、伝説にすらならないわけである。」
 
 
「戦争中の日本軍に「天皇が停戦を命じても戦争を続行せよ」と訓示した軍人が居あるとは思えない。そんなことをいえば違命罪か抗命罪になる。
 
 
おそらくこの意味は、「フィリピンにおける組織的な戦闘が終わりをつげ、主力は内地に撤退することがあっても、お前はこの地に残って戦闘を継続し、後方攪乱・遊撃・補給の遮断・情報収集を行え」の意味であろう。
 
こういう命令なら、小野田少尉だけでなく、われわれも受けたのである。そして同じような命令は、ミンダナオでもセブでも発せられたはずである。これは私に言われれば「体よく捨ててった」ということにすぎない。」
 
 
「しかしジャングル内の心理状態となると、これは、もう私にもわからない。二十七年たつからわからないのでなく、そこを出てしはらくたてばもうわからなくなってしまうのである。(略)
 
 
従って戦後二十七年間、ジャングル内で生活をつづけて来た人が、いま、どういう心理状態にあるかは、到底伺い知ることができない。
 
そしてこの人々がもし無事に出て来たら、やはり、ほんの短時日で、ジャングル内の自分の心理状態はわからなくなってしまうだろう。そして、それだから人間は生きて行けるのだ、という気もする。」
 
 
〇この感覚はもちろんわからないのですが、言ってることは少しわかるような気がします。真夏の暑い日の心理状態を、真冬の寒さの中で思い起こそうとしても、本当のところはわかりません。
 
 
「こういう人間がジャングルでだれかにばったり会う。言葉は通じない。瞬間、反射的に銃に手が行く。(略)
 
 
従ってこういう条件下にある人間を平和裏に救出する方法は一つしかない。だがこの方法は私たちには有効であったが、小野田少尉の場合は、もうわからない。それは「命令」である。軍隊には「自由意思」というのもはない。
 
 
従って、情報を与えて、それによって自主的に判断し、自由意思でジャングルを出るようにという発想が誤りである。第一、その「与えられた情報」は、銃器に取り囲まれて、「出れば撃たれる」という体験を繰り返している人間にとっては、よほどの裏付けがない限り、到底信頼できる情報ではない。
 
 
さらに「ニコヤカに笑っている写真」などは、猜疑心を増すだけである。戦争が終わったということと、自分がジャングルを出ても射殺されないという保証とは、はっきり別ものなのである。従って「射殺されようと、斬殺されようと、銃を捨ててジャングルを出、フィリピン警察隊に出頭せよ、命令だ!」という以外にないようにも思われる。(略)
 
 
しかし、私の場合は確かに効果があった。」
 
 
「(略)私がジャングルを出た情況も何かの参考になるであろう。記録に誤りがなければ、それは八月二十七日であった。私たちは北部ルソンのサンホセ盆地の東北、パラナンと呼ばれた峡谷のジャングルにひそんでいた。
 
 
すでに分水嶺に近く、網の目のように入り組んだ谷々に小部隊がひそみ、その一番奥に、パラナン地区隊長のS大尉がいた。この峡谷の出口、ジャングルの前端に近く分哨がおり、その分哨長が私であった。(略)
 
 
一方、私自身のS大尉への不満も実は爆発寸前であった。(略)何しろアパリの陣地からの転進以来、生還不能という場合には必ず私がやられた。現在もそうである。(略)
 
そして時には、意識的に俺を殺そうとしているのではないか、と思われる事すらあった。」
 
 
 
「後で聞くと、私が出発すると、ほとんど入れ違いに、前方の樹間に何か日章旗らしいものが見えたそうである。(略)
 
日章旗はしだいに近づいてきて、ついに一人の将校が現れた。丸腰で、同様に丸腰の日本兵一名と、米兵二名がついて来た。旅団副官のA大尉であった。
 
一同は半ば茫然としつつ、それでも敬礼をすると、A副官は、「支隊命令だ。地区隊長にすぐ伝えよ」と言った。内容は「明日午後二時までに連絡将校一命をダラヤ部落に派遣し、所在米軍の指示をうけよ」であった。
 
 
副官はそれだけ伝えると、戦争は終わった、と言い残して去ったという。軍隊というところは元来これだけであり、これで十分なのである。」
 
 
 
日章旗銃口を向ける日本兵はいない。今までの小野田少尉救出作戦では、果たして、日章旗を活用したことがあるのだろうか?日章旗に対しては、確かにある種の条件反射的なものがあるはずである。」
 
 
 
「S大尉は、東海岸に行くといった。(略)今度は、どちらを選択するか兵隊に言ってくれと私に言った。「言いたきゃ自分で言えばいいさ」と内心思ったとき、伝令が来て、私の目の前で、A副官からの支隊命令をS大尉へ伝えた。
 
その瞬間、S大尉は軍刀をつかんで傲然と立った。その変化はまことに驚くべきものがあった。そしてはっきりと、「地区隊命令。山本少尉は明日午後二時までにダラヤ部隊に至り、所在の米軍と所定の連絡をなし、その指示をうけ、帰隊すべし」と言った。
 
妙な話だが、瞬間的に私の態度も一変し、その命令を受けた。
これは私だけの経験ではないらしい。降伏命令が来たとき、瞬間的に軍紀が一時元に復したことは、多くの人が経験した事らしい。降伏はあくまでも、大元帥陛下から指揮系統を通じての「命令」だったからである。」
 
 
 
「(略)また「生きて帰ってクラッセ、生きて帰ってクラッセ」と念仏のように繰り返した。
彼が何を言っているか、私にはよくわかっていた。彼がおがんだのはもちろん私ではない。いわば「救いのおとずれ」なのである。降伏だの支隊命令だのと言っても、ジャングルを出たわれわれの生命が保証されているわけではない。
 
 
大体、命令が出れば死地に追いやられるのが普通である。出たとたんに並べて銃殺されても、どうもできない。だが、私がダラヤ部落の米軍陣地に行き、もし生きて帰ってきたら、それは、自分たちが生きて内地へ帰れるかもしれないという、唯一の「物証」が手に入ったわけである。
 
 
米軍の陣地に行ったものは、絶対に生きて帰っては来ない。それなのに、もし私が生きてかえったら、それはまた、事態が本当に変化したという証拠でもあるわけである。
 
 
あらゆる情報、デマ、ほら、希望的観測に裏切られ続けて来た彼らは、もう、「物証」を手にしない限り何も信じられない状態であった。」
 
 
 
「もちろんフィリピン人といっても千差万別だが、私がいた陸の孤島サンホセ盆地やルソン・ミンダナオ間の何千という離島の住民となると、全く純朴すぎる一面がある。
 
 
権謀術数はもちろんのこと、あらゆる意味の計算が無さ過ぎるのである。従って、恐怖を感ずれば反射的に射撃してしまう。これがこわいので日本兵もそうなる。どちらが先かはなんともいえぬが、この悪循環は今回のルバング等の事件にも見られるように思う。
 
私たち二人が用心したのもそのためであった。」
 
 
「息づまるような無言の中で、不意に子供が叫んだ。
「バカヤローッ・イカホー・シゴロ・パターィ」
バカヤローという日本語は、すべてのフィリピン人が知っていた。次につづく言葉は、「お前は多分(きっと?)死刑だ」の意味だが、パターイの用法は非常に広く、単なる罵言「死んじまえ、こん畜生」ぐらいの意味にもなる。(略)
 
 
この声で、ちょっと動揺が感ぜられ、同時に村長らしい初老の男が進み出て、腰をかがめて挨拶するような姿勢をし、一軒の家を指していった。「インバカマリンボー・ルテナン・シゲー・シゲナー」(今日は中尉さん、お早く、お早くどうぞ)_
 
次の瞬間の自分の行動は、今の私にはもう理解できない。それはまるで本能のような反射的な行動であった。私は無言でいきなり村長の前に跳び出し、左手で相手の肩をつかみ、右手で拳銃を握ると、顎でその家を示し、ぐるっと相手の体をその家の方へ向けた。
 
彼は振り向いて「アコッ?」(俺が?)といい「ヤー・シゲッ」(そうだ、行け)と私は答えた。「ヒェーッ」というような、吐息とも叫びともつかない声が群衆から起こった。村長は落ち着いた男で、右手をあげて人々を鎮めると、黙って私の前をその家へと歩いて行った。その両肩は怒りと恐怖にふるえていた。」
 
 
「この地方のフィリピンの家は高床式である。梯子をのぼって家に入る。そこで梯子をはずされて下から火をつけられればおしまいである。結局私は人質をとったわけであった。(略)
 
 
部落のはずれに来たときすでに、「だまされたかな」という疑念が私にあった。米軍の気配が全くないからである。」
 
 
「遠くで何か笛の音がした。聞いたことのない音であった。私は窓からその方をながめた。青い戦闘服の米軍の一将校が、駆け足でこちらへ向かってくる。その周囲を五、六人のフィリピン人が、跳ねるような踊るような足つきで、同じように駆けてくる。
 
 
一団はずんずん近づき、笑いさざめく声がきこえる。その将校は手に水牛の角で作った手製らしい角笛をもち、面白そうに時々それをプーッと拭く。間の抜けたような音がし、周囲のフィリピン人はキャッキャッと笑っていた。
 
 
一同は窓の下でとまった。将校は皆を制し、手に水牛の角笛をもったまま、一人の日本兵をつれて、身軽に梯子を駆け上がり、ずかずかと部屋に入ると、いきなり私の前の椅子にかけ、傍らの村長をどかせて日本兵を座らせた。
 
 
この日本兵は三井アパリ造船所の社員で、現地で招集され、旅団司令部にいたIさんで、英語がうまかった。以前から知っていたのだが、人相が変わり果てていたのでわからなかった。彼も私が分らなかったらしい。
 
 
全ては一切の儀礼なしに、全く事務的にテキパキと勧められた。「私は軍医だ」と彼は自己紹介し、いきなり「歩けない病人と負傷者は何名いるか」と言った。(略)
 
 
「では九月十日正午までに担送を終わるように。そこからは米軍の水陸両用兵員輸送車で運ぶ」「わかった」「歩行不能者の兵器弾薬もそこに運ぶように。絶対にフィリピン人に交付したり放置したりしないように」「わかった」「東海岸へ行った者と連絡はとれないか」「とれない」「方法はないか」「ない」「よろしい、では観測機でビラをまく、何名ぐらいそこにいるか」「生存者は皆無と思う」
 
 
「よろしい、では歩ける者は、担送の終わり次第、九月十日二時までに、このダラヤに集結するように」「わかった」「では……」と言って彼は立ち上がった。私も立ち上がって敬礼をした。彼は答礼をするとすぐに梯子を下り、また面白そうに水牛の角笛をふくと、半ば駆け足で去って行った。
 
 
言葉つきは軍隊的で事務的だが、非常に落ち着いた温厚な感じの人であった。これが戦後、私が、はじめて目にしたアメリカ人であった。」
 
 
 
「たとえ短期間でも生死を共にした者が死ぬと、その場所を立ち去ることに、普通では考えられないほどの強い精神的重圧を感ずるものである。小野田少尉もおそらく同じであろう。
 
このことはよほど慎重に考えないと、救出するつもりで、逆に死者の後を追わせてしまう。前にのべた硫黄島で断崖から身を躍らせた人も同じだと思う。それが、こういう状態におかれた人間の普通の行動であって、異常なことではない。
 
 
前に、「文芸春秋」に書いたが、「俺だけはジャングルに残ろう」と考え、一瞬私が取って返そうとしたのも、そういう状況の下では、ごく普通のことなのである。
 
 
私は結局「命令だ」「命令だ」と自己弁護をしながら出て来たわけである。」