読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

私の中の日本軍 上 (軍人より軍人的な民間人)

「従ってこの「百人斬り」を解明するには、まず幹部候補生制度、および幹部候補生出身将校というものを解明しなければならない。


前に、将校には、士官学校出、将校、特進、幹候の四系統があったと書いたが、この幹候といわれた一群の下級将校、そして数においてはおそらく最も膨大ではなかったかと思われるこの大日本帝国陸軍の「臨時雇い」の実態を明らかにしないと、この記事は解明できない。」



「すなわち当時も、将校は、その見掛けだけで、士官学校出か小候か特進か幹候か、大体、一目でわかったものである。」



「九月号の「諸君!」で、林健太郎教授が「王様より王党的」という言葉を率いて「北京より北京的」「林彪より文革派的」な日本人に言及しておられるが、私の青少年時代に、日本国中の至る所で無遠慮に横行していたのはまさに「軍人的な民間人」であった。


彼らは軍人より軍人的に振舞い、軍部より軍部的な主張をし、本職軍人などは足元にも及ばぬほどの神がかり的主戦論者で、言論機関を利用して堂々と対米開戦を主張する大物から、徴兵検査場でだれかれかまわず「トッツく」小物のおにいちゃんまで、社会の至る所に盤踞し、強圧的な態度であたりを睥睨していた。

私に最初にトッツいたのは軍人でなく、こういう民間人の一人であった。」


〇ここを読みながら思い出したのは、グループサウンズ全盛時代の自分のことです。
私の周りは、タイガースのファンが多く、「ジュリー!」と騒いでいました。

私は、無意識レベルでは、正直、あまりイイとは思いませんでした。ジュリーもそれほど好きだと思わなかった。(ブルーコメッツの曲が好きでしたが、それは、曲が好きなのであって、ちょっとみんなと違っていました。)

でも、中学生の私は、好きなのは「タイガース」で「ジュリーだ」と言いました。だって、聞かれたときに何か答えなきゃならなかったのです。
そうなると、まわりの空気に合わせて、いかにも夢中なように演技するようになりました。

今、思うと私も完全に、この「軍人もどきにトッツく」タイプの人間だったんだと思います。

また、もう一つ思い出すのは、これは以前も書きましたけれど、子どもに対する親としての態度です。

子供には、愛されていると実感できるように、こちらの気持ちを伝えたい、と思ってはいました。
でも、一方で、しつけはきちんとしなければ…と思い、そのしつけに困りました。
どうやって躾ければよいのか…

犬でさえ、ちゃんと躾けられないのに…。でした。

それで結局、「子どもが悪いことをしたら、厳しく叱る」になるのですが、「悪いこと」の範囲はどんどん広がり、常に怒鳴っている状態になりました。

あの頃の、自分を振り返ると、ほとんど、この「トッツく」軍人そっくりです。

「躾ける=厳しく叱る」のパターンがイメージとしてあって、その厳しさを演じていたような気がします。ここで、民間人が軍人を演じるように。


「ではなぜ浅海特派員をこういう「軍人以上に軍人的な民間人」と考えるか。(略)


向井少尉はその上申書で次のようにのべている。
<(二)特派員浅海が創作記事をナシタル端緒ヲ開明スル処、次ノ如ク解セラル。(中略)如何にも記者たちが第一線の弾雨下で活躍しているように新聞本社に対して面子を保つために、あの記事は作られたのである>(略)


つまるところ、自分は、砲煙弾雨の中で、最前線で活躍しておりますよ、と書いているのであり、結局彼が書きたかったのはこのことで、向井・野村両少尉は、これを書くためのダシに使われているにすぎないのである。すなわち向井少尉が指摘している通り、この記事の中で主役を演じて大見得を切っているのは、実は浅海特派員その人なのである。」



「(略)歩兵砲・山砲・野砲は腰掛けて操作するが、十榴となると立ったまま操作する。敵の小銃の有効射程内に入ってしまった場合、腰掛けたままとか立ったままという姿勢は、まさに、「殺して下さい」といわんばかりの「絶好の標的」ともいえる姿勢なのである。

しかし砲側を離れることは絶対に許されない。(略)


北ヴェトナム軍では、戦車兵の足を鎖で戦車につないであったという報道があり、中国戦線では、トーチカの鉄扉の外側から錠をかけてあったという話があるが、私の知る限りでは日本軍にはこういった例はない。(略)


砲車小隊長以下、命令なくして砲側を離れることは絶対に許されず、もし離れたら敵前逃亡だが、「砲側を離れてよろしい」という命令は絶対に来ない。



「百人斬り」の記事の前段では、向井少尉は勝手に砲側を離れていることになるが、もし事実なら、彼は戦犯を問われる前に、「違令罪」で軍法会議にまわされたはずである。(略)



従って砲側に銃弾が飛来したとなれば、生きるか死ぬかの土壇場である。新聞記者相手のおしゃべりなど思いもよらぬし、第一そんなところへ新聞記者が来るはずがないし、来てもたちまち逃げ出すに決まっている。そして報道が任務なら、退避するのが当然であって、それは少しも恥ではない。」


「従って真に恥ずべきことがあるとしたら、それは、銃弾の飛来する砲側にいたような嘘八百を並べることである。一体なぜそういうことになるのか。これがすなわち、当時いたる所に蟠踞していた人間の一つの見本であって、


何かを報道するのでなく、自分を誇示し、前線で「軍人以上に軍人らしく振舞っていた」ように自分を見せようという欲求しかない人間の姿なのである。


そしてこういう人間が、自己顕示のため噓の報告をする人間が、何百という同胞を殺した元凶の一人だと私は思っている。第一、本当に砲側にいたというのなら、歩兵の肉薄攻撃をうけている砲兵の断末魔をそんぼまま正確に書けるはずである。」



「「血相が変わる」といま書いたが、「もうダメだ」というとき兵士がどんな顔をするか_ああ、あの顔、一度これを見た者は、生涯忘れることが出来ない顔である。この顔だけは戦争映画やテレビはもちろん、キャパの写真にすら出て来ない。(略)


その顔とは、一言でいえば、もう人間の顔でなく、動物の顔なのである。一番似た顔探せば、恐怖の余り全身の毛を逆立てて低くうなっている時の猫の顔である。写真で見ると豹でも虎でも同じなのだが、こういうときは、一種独特に目がすわり、鼻のりょうわきと口の間に奇妙な細かい横じわが走り、上唇の両端が上にひきつっている。


これはおそらく牙をむき出すからであろうが、人間が同じ顔をするのである。歯をくいしばっているくせに、両端にちかい上唇だけが上につりあがり、鼻の両わきと唇の間にだけ皺がより、ちょうど犬歯をむき出したような顔になる。(略)


兵士から見れば、私もそういう顔をしていたに相違ない。生涯もう二度とこういう顔は見たくないし、自分ももうこういう顔にはなりたくない_だが、ためにし鏡に向かってこの顔を作ろうと思っても、それは出来ない。


あれは恐らく、殺される直前に起こす一種の痙攣に似た反応なのだ。これは「恐怖にふるえる」というのとはまた違って、「どうせ殺されるんなら、相手の喉ぶえにかみついてやる」といった顔、いわば追いつめられた獣の顔である。」



「(略)戦場は殺す場所ではなく、殺される場所であり、殲滅する場所でなく殲滅される場所なのである。
その人びとはわれわれであり、前線の兵士たちである。彼らにとって戦場とは「殺される場所」以外の何ものでもない。


そして何とかして殺されまいと、必死になってあがく場所なのである。ここに、前線の兵士に、敵味方を超えた不思議な共感がある。


私たちがジャングルを出て、アメリカ軍に収容されたとき一番親切だったのは、昨日まで殺し合っていた最前線の兵士だった。」


山本七平氏が、どこかに、「女には絶対に戦争に行って殺される兵士の気持ちはわからない。どれほど、戦争反対を叫んでも、結局、女は絶対に戦争には行かないのだから。」という主旨のことを書いていました。

つまり、そのレベルの「わかる」を伝えたくて、山本氏は一生懸命に書いているんだな、と思いながら、読んでいます。

「その時ある兵士が、まったく無意識に、あるメロディーを口ずさんだ。それは当時だれでも知っている国民歌謡で、歌詞は「父よ、あなたは強かった/兜もこがす炎熱を/敵の屍と共に寝て/泥水すすり、草を食み…」であった。(略)


ところが別の兵士が、全く不意に「ヤメロッ」と大声で、血相を変えて怒鳴った。
瞬間すべての人間にその気持ちがわかる。一同がちょっとシーンとしたとき、その兵士は呟くように言った、「こんな歌を作った奴はタタキ殺してやりたい」と。」


「夜があけた。異様な臭気に目をさます。一人が「アッ」と声を立てた。廠舎のように細長い建物は真ん中に通路があり、両わきが板張りである。われわれは靴も脱がずにそこに横たわっていたわけだが、横たわっていたのは我々だけではなかった。


あっちに一つ、こっちに一つ、ふくれあがって衣服がはちきれんばかりになった黒ずんだ死体が寝ている。声も立てずに、全く衝撃的にみなが一方の出口から外へ駆け出す。そして出口を出たとたん、また「アッ」と言って立ちすくむ。全員、声もなく立っている。


見れば目の前に太い倒木が二本並べてある。それに、ベンチに腰を下ろしてそのまま仰向けに寝てしまったような姿勢で、一列に死体が寝ている。葉かげからさす青い光の下で、ふくれあがって今や崩れようとしている死体には、ぼろぼろの衣服からはみ出た部分に真っ黒に蠅がたかり、その蠅は飛び立とうとも動こうともしない。

「少尉殿、自殺でしょうか?」I軍曹がささやくように私に言う。私が無言で首を横にふる。明らかにそうではない。何かが行われたらしいことは皆にはわかっている。「出発!朝食は次の小休止地点でとる」私はわざと命令口調で言う。呪縛が解けたように兵士たちはばらばらと駆け出し、夢中で曳索を握ると、逃げるように砲車を引いて進む。」



「われわれは今、文字通り「屍と共に寝て/泥水すすり、草を食み」している。その現実の中にいる人間には、それを歌にして歌われていることが耐えられない。(略)


ここに「戦場は殺される場である者」と「戦場は殺される場だと口にする者」との決定的な差がある。」


〇少し飛躍しすぎかもしれませんが、あの「シーラという子」や「苦海浄土」(こちらは、解説の中ですが)の中に、「人間は他の人間を理解すること等出来ない」的な言葉がありました。

実際、私がシーラだったら、「トリイはどれほど特別だとか、愛しているとか言っても、こちら側の人間ではない。あっち側にいて、助けてあげようとしている人でしかないんだ」と思ったと思います。

それは、あの「苦海浄土
でワカメ売りの女性が、「あんた魚食うて、ちいっとしびれてみれ」のようなことを言った気持ちにも似ています。


そして、あの「彩雲国物語」でも邵可は、「中途半端に関わるな」と言いました。
の記事を添付します。)

人は結局、人の気持ちなど本当にはわかることが出来ない。
いつも、そこに行きつきます。

「C軍医は打ちひしがれていた。無理もない。だれだって、内地の学校からあの戦場にいきなり連れ込まれれば頭はおかしくなる。彼は、ベッドにごろんと横になると、目をしょぼつかせ、「ああ、オレを病院船で内地へ転送してくれんかなあー」といった。彼の本心だったであろう。

これが、私が耳にした彼の最後の言葉であった。」


「彼のこの言葉は、アッという間に本部に広まり、部隊全体に広がって尾鰭がついた。「あいつは仮病を使って入院し、現役の手づるで病院船にもぐりこみ、内地に帰るんだとサ。チクショー」ということになる。」



「彼の憤激に油をそそいだのは、あの言葉だったと思う。彼の頭の中の図式では、おそらく「C軍医は自分を死地に追いやることで部隊長にゴマをすり、それによって仮病で病院にもぐり、四航軍のパイロットの脱出に便乗して、病院船で内地へ逃げ出そうとした。そしてその真相を知っているのは山本だ」ということだったと思う。」



「私が「百人斬り」を黙過できないのも、この心理かも知れない。(略)「前線で砲煙弾雨の下を駆け回って取材しております」というジェスチャーをし、あたかも「百人斬り」のすぐ背後にいて、白兵戦のどまんなかでそれを目撃したような記事を書き、


法廷の証拠になってはじめて「現場は見ていない」と自白し、しかも、自己の記述に信ぴょう性をもたすため、後述するように人を処刑台に送る偽証をし、あたかも歩兵の肉薄攻撃をうけている砲車の傍らにいたかの如くに書き、


また「週刊新潮」によれば、戦場帰りの長髭をしごいて、突入する戦車隊の傍らにいたかの如くに大見得を切っているが、これも時日を調べれば真っ赤な噓。そしてそれらのすべては、あの、全身の毛を逆立てて恐怖している猫のような顔をして死んだ兵士の死体を踏み台にしての、大見得ではないのか。」


「これは一体どういうことなのだろう。「王様ひょり王党的」そのままの、あの軍部より軍部的で、軍人より軍人らしく振舞い、軍人以上に好戦的言辞を弄していたあの「軍系民間人」、


砲煙弾雨の中をかけめぐっていたが如き自画像を麗々しくかかげ、兵士の死体を踏み台にして大見得を切り、軍にゴマをすって、われわれ下っ端を憤激させ、またそれに一言でも異論をのべれば非国民扱いをしたあの人びと_あの人たちの正体は一体全体、何だったのだろう。だれか糾明してほしい。」



「野田少尉が「未練を残すまい」といったその「未練」とは何だったのか。私はこのことだと思う。同時になんとなく、二少尉の運命と記者との関係が、蓮見事務次官の運命と「知る権利を守った英雄」との関係を、連想させる。

新聞社自体が発表を控えたはずの資料をふりかざして大見得を切ることによって、一人の人間を踏みつぶしてよいものなのだろうか。」


〇この、「私の中の日本軍」とは、「百人斬り」告発の書なのか?と思うほど、繰り返し繰り返し、「百人斬り」のことが出てきます。

それほどまでに、この浅海記者と、その擁護者への怒りが強いのでしょう。「戦意高揚」という大義名分を掲げ、二人の人間を利用して、その死をもたらしておきながら、自分は全く無傷で平然としている、こんなことがまかり通っていいのか!と。


ここでも、「善とか悪とかは、ない」という禅の教えって、一体どう考えればよいのか、と思います。


子供の頃、母親が私に、「教養のある人とは、人の身になって考えられる人のこと」と教えました。(後で知ったのですが、だれか識者が雑誌に書いていた言葉のようです。)

新聞記者といえば、当時だって、教育レベルは高かったのでは?
教育はあっても、教養がない人が多い、という言葉を思い出します。