読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

下流志向 _学ばない子どもたち 働かない若者たち_

内田樹著 「下流志向 _学ばない子どもたち 働かない若者たち_」を読んでいます。
ネットや新聞等で、内田氏の発言を読み、内田氏に興味を持ったのと、この「学ばない子どもたち」という題名に興味を持ち、まずは読んでみよう、と開いてみました。

最近は、本を読む時間もあまり取れないので、まだ、半分だけです。
一つ一つ、引用して、ここに載せる時間が無いので、感想だけにしたいと思います。


印象的だったのは、子どもたちが「学びからの逃走」という状態にあるという指摘です。なぜそうなっているかといえば、それは、子どもたちが家庭の中で、労働を通じて認められるのではなく、主に、消費者として認められるようになったから、ということです。

昔の子供は家庭の中で、労働を担うことで、親に認められ、社会に認められ、育っていった。
でも、今の子どもたちに、担うべき労働はなく、あるのは、消費者としての自分だけ、という捉え方は、確かにそうだなぁと思いました。

以前、原発について、今後どうすべきか、の議論を聞いていた時に、ある若者が、もっとわかりやすく、どのようなサービス(利益)が私たちにもたらされるかを示してほしい、という意見を述べました。

つまり、国民(有権者)を消費者として見るべきだ、という意見だったと思います。

自分にとって、何が損で、何が得かをはっきりさせると、関心も生まれるし、判断もしやすい、という意味なのだ、と思ったのですが、でも、それって、何かが違うなぁと感じた記憶があります。

先日も、あるお笑いタレントが、「森友問題が解決したとして、誰も得をしないだろう。(そんなことをいつまでも騒ぐのは愚かだ)」という主旨の発言をしているのをネットの記事で見ました。

なぜ「損得」だけなのか…。すごく違和感を感じます。


「消費活動の基本は等価交換です。「等価」とは要するに「無時間」だということです。マルクスが言うように、貨幣と商品が等価であるということは空間モデルによってしか記述することができないからです。等価性というのは時間を捨象したときにはじめて成立する概念なのです。


教育を消費行動のスキームでとらえる子どもたちが「学びからの逃走」の道を進むように、労働を消費行動のスキームでとらえる若者たちが「労働からの逃走」の道を進むのは、彼らが時間を勘定に入れ忘れているからだと私は考えています。」


〇なるほど~と思いました。

ただ、そのこととは別に、私レベルでの、実感としての「学びからの逃走」についても、書いてみたいと思います。

この本にも…

「これは、どこかで教育を受けることが「特権」ではなく「苦役」として感じられるようになったということを意味しています。」

とありますが、まさに、学校にいる8時半から3時頃までは、「苦役」なのだと思います。。

それでも、みんなやってることで、親がそうしろというので、「忍耐」して、
毎日行くのが学校なのです。

多分、何割かの子は、あのシステムがイイ感じで、合っているのでしょう。
そういう子は、すくすくと成長できると思います。

でも、あの「母性社会日本の病理」 
にもありましたが、このシステムが、その子のレベルに合っていないタイプの子も相当数いるはずなのです。

それでも、みんな一律に、同じ内容の授業を一日何時間も机の前にジッと座って忍耐しなければならない、というのは、相当な苦役だと思います。


自分のことを振り返ってみると、小学生のころは、先生の言うことがすっすっと頭に入って、授業は苦痛ではありませんでした。
中学は、数学と英語が難しいと思いましたが、私なりに頑張った結果、因数分解は楽しいと思うようになりましたし、英語の構文なども、分かるようになりました。

でも、高校に入って、もう絶対に無理!と思ったのが、あの微分積分です。
そして、化学です。しかも、英単語は覚えても覚えても忘れていきます。

その時、私にははっきりわかりました。
体中の細胞が拒否するほどにやりたくない「勉強」というものが、この世にはあるのだ、ということが。

でも、その後、進学し、受けた、文学や哲学や科学史の授業は、本当に面白かった。

勉強が全て嫌なわけではない。でも、嫌な勉強は確かにあって、その授業は、苦役としか思えない、という経験がある私には、学校の勉強が何より嫌いだという人の気持ちが少しわかるような気がします。

そして、もう一つ、思い起こすことがありました。

それは、あの「シーラという子」
の中にあった言葉です。

「毎週水曜日には何か食べ物を作ることになっていたが、それにはいくつかの理由があった。かなり自分をコントロールできる子供たちにとっては、これは算数や読み方のいい練習になった。


また、どんな子にとっても、料理をすることは社会活動をしたり、みんなと何かを分かち合ったり、おしゃべりをしたり、共同作業をする絶好の機会となった。それよりなにより、料理は楽しかった。」(シーラという子)


〇このタイプの活動が学校の中にもっとあったら、いいのに、と思います。
というのも、もう少し、「動き回る」「共同作業」の授業は出来ないものか、と思うのです。
机の前に座ってジッとしている、というのは、「動物」としては、相当に不自然なことです。

そして、今の子供たちは、私たちの頃以上に、身体を使って遊ぶ機会が少ない。

先日、テレビで知ったのですが、動物の細胞は、動くことで活性化するそうです。今や、会社の「デスクワーク」も「立って」行われているところも出てきているそうです。

それほどに、机の前にじっと座って、しかも、ただただ沈黙して、静かにしているのは、相当な苦役だと思います。

私は、昔はいつも体調の悪い人でした。
鬱的な性格だった、ということもあるのですが、運動不足だったのだと今は、思います。

結婚し、意識的にウォーキングをするようになり、今はすっかり元気になりました。
身体を動かさないことが、どれほど悪いことか、思い知りました。

子どもたちがもっと共同作業をするように出来ないものか。
子どもたちがもっと体を動かすように出来ないものか。

学力以前の、動物としての何かが、退化しているように感じます。