「彼らの考えでは、大学というのは教育サービスの「売り手」であり、受験生とその保護者達は代価を払って教育サービスを購入する「買い手」である、と。
つまり、学校教育の「クライアント」である。このクライアントに対して大学は教育サービスについて契約を交わした。「これだけの授業料を払ったんだから、それと等価の教育サービスを提供するように」という語法で彼らは学校に対して要求を行ってくる。
でも、これはすでにこの段階で「教育の自殺」だと私は思います。」
〇ここも、確かに~と思いながら読んだのですが、でも、一方で、この「学生をクライアントとして見る姿勢が必要だ」という感覚は、少しわかるような気もするのです。
というのも、私が進学した学校は、一応「公立」の学校だったのですが、確かにとても面白い授業もたくさんありました。でも、その一方で、この教授は多分何年も、この同じノートをただただ読んで、お金をもらってるんだろうな、という人もいました。
もう少し、何とかならないものか…と思って呆れた記憶があります。
「例えば、大学には「シラバス」というものがあります。(略)
これは大学が学生と取り交わした労働契約である、と。だから、何月何日にこれこれのことを教えるとシラバスには書いてあるのに、先生がそれを教えなかった場合、学生たちは「これは契約違反である」と大学にクレームをつけることが許される。
これは高等教育の自殺の一つの徴候だと私は思っています。自分がこれから何を学ぶかについて、学生があらかじめ知っているということを前提にしては、学びは成立しないからです。」
「これを僕は「メンター(先達)のパラドクス」と読んでいます。ぼくたちがある知識なり技術なりを習得しようと望むとき、メンターに就いて学びます。しかし、メンターというのはよく考えるとまことに不条理な存在です。(略)
自分がどこに行くのか知らない人間が自分を目的地に連れていってくれる人間が誰であるかを言い当てなくてはいけない。これを「不条理」と申し上げたのです。」
〇この話がすごく身につまされ、そして面白いと思いました。
私について考えてみると、私はもともとそれほど一生懸命に読書をする人ではありません。
読書って、それなりに努力が必要になります。私は努力が苦手です。好きな事ならできるけれど、苦手なことは出来ないのです。
そんな私にとって、読書は、この「メンター」を嗅ぎ分ける必要性に迫られるものに思えます。
そして、赤川次郎も読む気にはなりませんでした。
そして、最近では河合隼雄氏との出会いがあります。
案外私には、メンターを嗅ぎ分ける力があるのでは?と思っています。
「合気道を習い始めてしばらくして、はじめて多田宏先生とお話しする機会がありました。その時先生から「内田君はどういう動機で合気道を始めたのですか」と訊かれて、僕は「喧嘩に強くなるためです」と即答しました。
もう三十年以上前のことで、若気の至りとはいいながら、愚かなことを言ったものです。しかし、その時はたしかに僕にとっては「戦闘力を高める」ということが武道修行の喫緊の目的だったのです。
その僕の愚かしい答えに対して、先生は破顔一笑して、「そういう動機から始めても別に構わない」と言われました。そのとき、僕は「この先生は本物だ。この先生に就いて行こう」と決意しました。」
〇このエピソードがとてもいいと思いました。
ここを読みながら、多田宏先生も、この「僕」も本物だと思いました。
「ですから、一度学ぶとは何かを知った人間は、それから後はいくらでも、どんな領域のことでも学ぶことができます。というのは、学ぶことの本質は知識や技術にあるのではなく、学び方の内にあるからです。」
「科学の論証ではつねに「仮説」というものを立てます。仮説を立てて、それに基づいて実験をして、反証事例が発見されれば、仮説を書き換える。これが自然科学人文科学を問わず、すべての科学的思考の基本です。
この「仮説」というのが、今言った「わかりかけているけれど、まだ完全にはわかっていない解き方」のことです。(略)
知性とは、詮ずるところ、自分自身を時間の流れの中に置いて、自分自身の変化を勘定に入れることです。
ですから、それを逆にすると、「無知」の定義も得られます。。
無知とは時間の中で自分自身もまた変化するということを勘定に入れることができない思考のことです。
僕が今日ずっと申し上げているのはこのことです。学びからの逃走、労働からの逃走とはおのれの無知に固着する欲望であるということです。」