読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

下流志向 _学ばない子どもたち 働かない若者たち_

「第四章 質疑応答

平川  (略)そのころからバブルが崩壊して、日本の景気が徐々に悪くなるに従って、過剰に日本的経営システムとか資産と言ったものに対する反省をするわけです。反省をした結果、どこに飛びついたかというと、当然のことながらアメリカ的な生産システムだった。労働価値観がアメリカから持ち込まれてきた。


今日のお話はその頃から私たちがアメリカに学んだ事がら全般が、そろそろ賞味期限ぎりぎりのところに来ていて、そこからいろいろなところに矛盾とかほころびというのが生じているのではないか。(略)


つまり、無時間モデルというのはアメリカの典型的なモデルですよね。その点、どうですか。


内田 今日はアメリカには具体的には言及しませんでしたけれど、ご指摘の通り、今日の話は実際には「アメリカン・モデルの終焉」ということでまとめていただいても構いません。」


「内田 (略) マリノフスキーの「西太平洋の遠洋航海者」で知られるトロブリアンド島の「クラ」の交換儀礼の場合がそうです。そこで好感されるのは貝殻でできた装身具なんですけれど、それ自体は何の有用性もない。

交換の隠された、本当の目的は、その無価値な装身具の交換がスムーズに行われるように、クラ儀礼の当事者の間で揺るぎない信頼関係を築くことや、交換のために遠くの島まで帆船で出かける遠洋航海の技術に熟達することなんですね。

クラの儀礼だけを見ると、白い貝殻と赤い貝殻が交換されるだけで、装身具とはいっても小さくて成人男性には着用できないから、有用性はゼロです。でも、その有用性がゼロのものを交換することを通じて、人間的ネットワークが構築され、その人間的ネットワークを構築し、維持する技術が習得され、伝承されてゆく。

造船技術であるとか、操船技術であるとか、気象を見る技術であるとか、海洋に関する知識であるとかそういうものがクラ儀礼を維持するために進化してゆく。もちろんイニシエーションとしても機能している。

私たちがやっているビジネスも本来はそういうものだと思うんです。

なぜ貨幣と商品を交換することに私たちが熱中するのかというと、交換が安定的にスムーズに進行するためには、交換の場を下支えするさまざまな制度や人間的資質を開発する必要があるからです。交換そのものよりむしろ、交換の場に厚みを加えること、それ自体に目的があるわけです。」




「内田  経済関係の背後には、交換を起動させ、維持するために様々な目に見えない人間的努力があるわけで、そちらの方がじつは経済活動の本来の目的だということを忘れてはいけない。僕もそう思います。」




「内田   (略)精神科のお医者さんに聞いたんですけれど、思春期で精神的に苦しんでいる子どもたちの場合、親に共通性があるそうです。

子どもの発信するメッセージを聞き取る能力が低い親が多い。子供が発信する「何かちょっと気持ちが悪い」とか「これは嫌だ」という不快なメッセージがありますね。それを親の方が選択的に排除してしまう。

というのは、子どもが心身に不快を感じているという情報は、いわば「製品」がノイズをだしているようなものだからです。それは製造工程に瑕疵があるということを意味する。それを親は自分の育児の失敗を意味する記号として理解する。だから、耳を塞いでしまう。


これは凡庸な経営者が自分の作ったビジネス・モデルの破綻から目をそらそうとする心的過程と同じですね。(略)


「経営がうまくいっていない」という情報は上に上がってこない。それは経営者の失敗を意味するからです。経営者はそんな情報は聴きたくない。だから下の人間は上げないし、仮に上がってきても経営者は聴き落とす。」


「内田  (略)そういう鈍感な親と暮らしている子どもは確実に心理的に壊れていく。子供にしても、自分の感じている心身の不快をうまく言葉にはできないわけです。

だから何を言っているかよくわからない。シグナルではなく、ノイズしか出せない。でも、親の仕事というのは、本来子どもの発信するノイズをシグナルに変換することだと思うんです。」

〇「子どもの出すノイズをシグナルに変換する」という言葉を聞いて思い出したのは、「シーラという子」の一場面です。

「そんなことはもうわかっていたからだ。そうでなければそもそも彼らは私の教室にはいないはずだ。

そうではなくて、それらの行動の幅や深さをさぐり、そういうことをしたときにどんな気持ちがしたか、どういう気持ちがすると思っていたのか、その他さして意味もないと思われがちな付随する細かな事等を探り出す必要があった。

たいていの場合、私は聞いているだけで、話がはっきりしないときだけ二、三質問する程度にとどめていた。(略)」

「内田  ノイズをシグナルに変換するプロセス、これこそ「学び」のプロセスそのものだと思うんです。自分の理解の枠組みをいったん「かっこに入れて」、自分にはまだ理解できないけれど、注意深く聴いているうちに理解できるようになるかもしれないメッセージに対して、敬意と忍耐をもって応接する。

そういう開放的な態度で耳を傾けないとノイズはシグナルには変わらない。ノイズはノイズであり、シグナルはシグナルであるというふうにきれいに切り分けてしまう人には、ノイズがシグナルになる変性の瞬間が訪れない。」