読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

「下流志向_学ばない子どもたち 働かない若者たち_

フェミニストたちは自己決定・自己責任と社会福祉の充実を同時に要求してきました。それは老人や病人の介護を家族に、特に女性に押し付ける家族主義が社会福祉の充実を停滞させてきたという歴史があるからです。

だから、フェミニストが家族制度の解体と、行政が弱者を支援する福祉制度の充実を同時に要求してきたというのは平仄が合っている。


でも、幼児や老人など、家族内で一番脆弱な存在の介護負担を「押し付け合う」という問題の立て方それ自体のうちに「弱者は健常者の自己実現の障害である」という発想が依然として伏流しているとしたら、これはやはり問題だろうと思います。(略)

かつて自分がそうであり、これから自分がそうなるかもしれないものとして「家庭内弱者」をとらえたときにはじめて、家庭内の誰かに過度の負担をかけることもなく、行政に丸投げするのでもなく、弱者たちをどういうふうに細やかに救い上げてゆくかという問題が「自己救済」の問題として立てられることになる。

金井(淑子)さんが「親密圏」という新しい概念を提出してきたのは、そういう文脈においてだと思います。あえて「家族」といえないところが苦しいけれど、方向としてはたぶんそれしかないと僕も思います。」


〇毎日毎日、便や尿の始末を続けるとき、老人の食事、洗濯、病院通いの世話を続けるだけで、一日が過ぎて行くとき、自分が奴隷になったような気分になります。

これは、実際にやった人にしかわからないと思いますが、本当に心の中の何かがおかしくなります。
ある種の虐待を受けているような感覚になります。
私はそうでした。

その感覚がどれほどのものかを知ってるか知ってないかで、この議論はまるで噛み合わないものになると思います。

一人の人に過度に負担がかからないように…と言葉では一言で済みますが、現実に、一人の人間の衣食住排泄を支えるということは、大変なことです。

「弱者が健常者の自己実現の障害である、とするのは問題だ」、と言ってみても、問題は少しも軽くなりません。


そのことへの想像力が無く、「誰もが弱者になる。互いに支え合いましょう」と言いながら結局、家庭内の弱者に担わせようとする空気に抵抗して、「家庭」を破壊したくなる人が出てくるのだと思います。


行政に任せるのはあなた任せ、でも家庭の中で女にやらせるのはあなた任せではない、というニュアンスが感じられます。
家庭を破壊しないためにも、行政が支えるべきだと思います。




「戦後六十年もかかって、日本社会は弱者のセーフティネットであった中間的な共同体を次々と壊していった。地域共同体も親族も主従関係も師弟関係も全部壊してしまった。」


〇なぜ壊してしまったのか、が問題ではないかと思います。「関係」が自分を支えるものではなく、苦しめるものに感じられたからでは?

「一人一人が尊重される」という感覚がなく、ただ抑え付けられ強制される時間があまりにも長い(主に学校の中で)。だからそれ以外の強制される場所には、もう行きたくない、関わりたくない、と思うようになってしまう…。

私自身を振り返ると、そう感じます。

「頻繁に出入りするほどではないけれど、何かあった時には「ちょっとお願いします」といって用事を託せる程度の、デリケートな濃淡のグラデーションのある親密圏というものはあった方がいい。

でも、親しすぎず、疎遠すぎずというようなあいまいな親密圏を作るノウハウを僕たちは六十年かかって棄ててしまったわけです。それをこれからどうやって再構築できるのか。」


〇このことには、全く同感です。


「今「未婚化・非婚化」といわれていますけれど、現実には高学歴で高収入の人たちの方が結婚率は高いのです。収入と学歴が下がるにつれて、離婚率、未婚率が上がる。つまり、社会的弱者たちほど支援者が持てないようなシステムになっている。

家族が創れない人は病気になったり、障害を負ったり、浪人になったときに、親しく支援してくれる人がいない。弱者は自分のリスクをヘッジしてくれるような中間共同体を作ることをイデオロギー的にも、実践的にも禁じられている。

こういうことはもっとはっきりアナウンスされるべきだと思うんです。弱者が弱者であるのは孤立しているからなんです。


自己決定・自己責任とか、「自分探しの旅」とかいうイデオロギーに乗せられて、セーフティネットの解体に同意し、自分のリスクを増大させていることに気づいていない。

マルクスは「万国の労働者、団結せよ」と言いましたけれど、ほんとうにその通りで、たいせつなのは「万国の弱者、団結せよ」ということなんです。


〇「弱者が弱者であるのは孤立しているからなんです」ということ、本当にそうだと思います。「万国の弱者、団結せよ」も全く同感です。

ただ、私の感覚では、自己決定・自己責任、「自分探しの旅」というスローガンに乗せられただけで、集団を解体したのではなく、やはり集団が苦しくて嫌なものだから、逃げ出したのだと思います。

なぜ苦しいのか、どうすれば苦しくない集団(共同体)を作れるのかをしっかり考える必要があると思うのですが。