読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

「下流志向_学ばない子どもたち 働かない若者たち_

「内田  僕は日本が決して恵まれた社会だとは思わないのです。たしかに物質的には豊かになりましたけれど、生き方の多様性は制限されていますし、人間同士のコミュニケーション関係はどんどん貧しくなっていますし、子どもに課せられている規格化、標準化の圧力は想像を絶するほど巨大になっている。とても彼らを恵まれているとは言えないですね。

I  人の生き方に対してそのように考えること自体が私なんかは余計な事だという気がするんです。その人にはその人の生き方があるんだから、他の人がいいとか悪いとか言うこと自体余計なことだと思うんですが……。


内田   「余計なことをするのが人間だ」というのが今日のテーマなんです(笑)。」




「平川   (略)結論から言えば、何か対処的な療法は一切しない方がいいと思っています。多分、これはそれぞれの家庭だとか個別の対人関係が生み出したものではなくて、もうちょっと奥が深くて、今の社会の経済システムが、必然的にはき寄せた社会の外部だというふうに私は理解しているのです。

ですからそこが変わらない限り一向に変わらない。(略)


でも、じゃあ、具体的にそこに金を注ぎ込んで何かやろうということになると、全然お角違いの話になる。文部科学大臣か誰かが、スパルタ式にもっと根性を叩きなおしてやったらいいとか言ってましたけれど、そういう話じゃないわけです。」

〇以前「母性社会日本の病理」に、登校拒否はそれぞれの家庭の子育てに問題があるからそうなるわけではない、とありました。

日本社会は、母性社会で、今までは大勢の中で、鍛えられて育っていたのに、今やその場がなくなり、それぞれ個人でに生きるようになった。

西洋のやり方には、個人として生きる人間を育てるための父性があるが、日本にある父性は、母性社会を守るための父性でしかなく、西洋のような個人を律する父性は弱い。

結果として、子どもは、個人で生きる規範を持たないまま、放り出されている状況になっている。その歪みの中で登校拒否も起こっていると考えるべきだ、という話がありました。その話を思い出しました。

「現在日本の社会情勢の多くの混乱は、著者の見解によれば、父性的な倫理観と母性的な倫理観の相克の中で、一般の人々がそのいずれに準拠してよいか判断が下せぬこと、また、混乱の原因を他に求めるために問題の本質が見失われることによるところが大きいと考えられる。(母性社会日本の病理より)」

「内田  それは危険な兆候ですよ(笑)そう思うのが、ニートへの王道ですから。よく立ち直れましたね。


J  アメリカに行っていちばんよかったのは、いろいろな人がいる、価値観がいろいろあるということでした。日本だと、まだまだ同じ価値観を押し付けようとしてくる。(略)


アメリカではいろいろな価値観が許されて、すごくほっとした。それから、もう日本でもアメリカでもどこでも私はやっていけるかなという気がしているんです。」


〇ここで、混乱するのでは?と思うのは、先ほど質問に立った「I氏」が人の生き方に対してどうこういうのは余計なお世話では?と言うと、内田氏は、その余計なお世話を言ってあげるのがコミュニケーションだ、とおっしゃいました。

一見、I氏は「いろいろな価値観」を主張していて、内田氏がそれを邪魔する「押し付けの価値観」を主張しているように見えます。


この手の混乱は頻繁に起こるように見えます。つまり、ここでI氏の主張していることは、「母性的倫理(場の倫理)」に従って、そういう生き方(多様性が少なく、コミュニケーション関係が貧しい)になっている人を、それは、個人の生き方だから尊重すべき、といっているに等しいのです。


でも、内田氏は、そうして、一見その人の生き方を尊重しているように見えながら、実は、混乱の中にあるのを見てみぬふりをする態度になってしまうのを、誡めているのだと、私は思いました。


でも、この見極めは、本当に難しく、河合隼雄氏がいうように、

「父性的な倫理観と母性的な倫理観の相克の中で、一般の人々がそのいずれに準拠してよいか判断が下せぬこと、また、混乱の原因を他に求めるために問題の本質が見失われることによるところが大きいと考えられる」

という情況です。
考えれば考えるほど、問題の根深さを感じてしまいます。

実は、この「下流志向」の少し前(文庫本142ページ)に書かれていたことを、メモするのを端折っていました。

でも、とても大事な事だと思うので、メモしておきます。

「たしかに、自己決定することはそれ自体「よいこと」である、という思想が社会の一部においては支配的なイデオロギーとして定着しつつある。これは事実です。

しかし、その一方で、日本人は骨の髄まで集団志向ですから、「自己決定することそれ自体が良いことである」という思想を「みんな」が共有することが声高に求められている。

どう考えても、ここには「ねじれ」があります。

「自己決定」というのは、「他の人が何と言おうと、私は私の決めた通りのことをやる」ということですけれど、今日本で語られている自己決定論というのは、「他の人が何と言おうと、私は私の決めた通りのことをやる」というのを「みんなのルール」にしませんか?」というものです。

これ、変ですよね?

「私は誰の同意も得ずに好きなことをやります」と宣言した人が、「この点について、是非みなさんのご同意を賜りたい」と言い出したら、おかしいでしょう。
日本人の語る自己決定論は、「自己決定することはよいことである」ということについての社会的合意が政府主導で形成されつつあり、「そういうのはどうかと思うなあ」という意見が圧殺されているという点で明らかに倒錯しています。


どちらかというと、政府主導の世論形成に対して、「そういうのはどうかなあ」と異議を立てる人の方が自立した人であり、自己決定志向の強い人ではないかと思うんですけれど、そういうふうにはどなたも考えない。

僕が「自己決定フェティシズム」というのは、そういうことです。「自己決定すること」が国策として推奨され、イデオロギーとして子供たちに他律的に注入されているという事態のことです。


「みんな自己決定する時代なんだから、君もみんなと同じように自己決定しなさい」という命令のありようそのものが論理的に破綻していることにふつうなら気がつきそうなはずですけれど、子どもたちは(子供だから)それに気がつかない。


選択を強制されていながら、選択した事の責任は自分でかぶることを強いられている。これはどう考えても不条理です。(略)


日本型ニートはそういう文脈で生まれて来た社会集団だろうと私は思います。」