読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

タイガーと呼ばれた子_愛に餓えたある少女の物語

「「ここ、わかる?」
シーラはかすかにうなずいた。
「あの窓を見て。左から三つ目のところ。あそこが私たちの教室だったのよ」と私はいった。
その言葉をのみこむような沈黙が広がった。(略)


シーラは首を振った。「あの公園に行こうよ。トリイが学校最後の日の写真を撮ってくれたあの公園に」と彼女はいった。
「雨がやんでからにしない?明日はどうかしら。チャドのところに行く前に行けばいいわ」
「いや。今行こうよ」
公園はわたしの記憶どおり美しかった。入口付近のゆるやかにカーブする広い道路はニセアカシアの並木と花壇で縁どられていた。花々のあまりの美しさに、私はうっとりとしてしまった。


私は園芸が大好きで、そこに使われている植物に興味があったので、途中立ち止まっては詳しく見た。だがシーラは今、この場所にいることを完全に忘れてしまっていた。まるで魔法にかけられたようにふらふらと歩いていた。」



私の目の前にも亡霊が姿を見せ始めた。他のどこでも経験したことがないほどの強烈さで、過去が蘇ってきた。(略)


「あたし、ここで幸せだった」長い沈黙の後にシーラが囁くようにいった。あまりに小さな声だったので、そこから感情を汲み取ることは出来なかった。」


「シーラは急激にふさぎ込んでいった。事態をなんとかしようとして、わたしはボウリングに行こうともちかけた。シーラが大好きなスポーツだったからだ。いや、行かない、と彼女はいった。(略)


いや。シーラがしたいことは、ただ車にのってもっとぐるぐる走り回ることだけだった。」


「短い、輝くような瞬間だったが、何とも言えない神々しい色だった。太陽に照らされて急に黄金色に輝きだした麦畑をバックに、道路の濡れたアスファルトが黒々と光っていた。


波打つ麦畑の向こうにはまだ真っ黒な雨雲が残っていて、その隙間から虹が出ていた。虹のほんの一部しか見えず、はっきりとした虹の形にもなっていなかったが、その一部が風に揺れる麦畑の上で美しく輝いていた。


「ああ、どうして美しいものを見ると、こんなに悲しい気持ちになるんだろう?」その光景を眺めながらシーラは小声でつぶやいた。」


「シーラは相変わらずおとなしかった。彼女の静けさには、重苦しい、ほとんど落ち込んでいると言ってもいいような感じがあった。わたしがいつも感じていた、シーラの内面にくすぶっている怒りを、彼女は初めて忘れたようだった。いつもなら怒りが
あるその場所には何もなかった。ただ大きな空虚があるだけだった。」




「「あたし、ばかみたいに見えるってこと自分でもわかってるんだ」シーラは鏡に映る自分の像に向かっていった。「トリイもそう思っていることも解ってる」
「そんなことないわ」
「ううん、そう思ってるよ。みんなそうだもん。あたしだってそう思ってるんだから」
彼女は髪を指でといた。「ねえ、あたし、ほんとうの自分らしく見られるのはいやなんだ。だからこんなふうにしてるの。もし自分が他の誰かみたいになれるチャンスがあるのなら、ばかみたいに見えるくらいはがまんできるもの」


「私は暗闇の中で耳を澄ませた。シーラははあはあと息をしていた。その浅い息の音が隣のベッドから聞こえて来た。

「あの、おとうちゃんはクスリをやってたんだ。そのことも知ってるよね?」
「ええ」
「たいていはヘロインだった。で、おとうちゃんにクスリを渡す男の人がいたんだ。
二人ね。ときどき、おとうちゃんはその人たちを連れて家に帰って来た。(略)


だけどおとうちゃんはその人たちに払うお金をちゃんと持っていたためしがなかったんだ。あたしは横になりながら、おとうちゃんが男たちに縋りついて頼んでいるのをていたのを覚えている。


その男たちにクスリを繰れって縋ってるんだよ。もうすぐお金が入るからって言いながら。泣いていた時だってあったくらい。おとうちゃんがそう頼むのをきいていたのを覚えてる」


私はヘッドライトの黄色い光が天上に作り出す光と影の模様をみつめていた。
「それで、男たちの一人のほうは、おとうちゃんにクスリを安く分けてくれたんだ。その、もし……その男はあたしと寝るのが好きだったんだよ……べつにファックとかそんなことはしなかった。ただ小さい女の子が好きだったんだ。自分の上に乗せるのが好きだったんだ。それで、あたしがその男のものをしゃぶったら、おとうちゃんはクスリを安く手に入れることができたんだ」


私は血が凍りつく思いだった。「どうして私に言ってくれなかったの?」
「六歳で何が言えるっているの?それに、そういうのがあたしの生活だったんだから。あたしはそういうことに慣れていたんだよ」


シーラが寝入ってからも私は長い間まんじりともできなかった。私のクラスで過ごした日々の思い出が次から次へと蘇ってきた。シーラにとって事態がそこまでひどかったとは。彼女はあまりにも貧しく、ほったらかしにされていた子供だった。


だからこちらがやってあげたいと思う事をすべてやり、すでに傷ついた部分をすべてもとにもどすようなことはとてもできなかった。当時のわたしにもそのことはわかっていた。だから、自分にできることからまず変えていこうとして、小さなことから手をつけていったのだった。


それでも、いつのまにか、私は自分が彼女を最悪のところから救い出したと思い込んでいたのだと今になってわかり、私は胸が痛んだ。これ以上の痛みがあるかと思うくらい激しく痛んだ。もっと私にはやるべきことがあったのではないか、と何度も何度も私は考え込んでしまった。」


〇ここでも、「精神の生活」の言葉が思い浮かびました。

今日なら「意識」と呼ぶだろうが、もともとは今日なら「良心」とも呼ばれるものの機能を併せ持っていたものである。」

トリイがシーラの状況を知らなければ、意識しなければ、良心の呵責に苦しむことはなかった。というより、シーラに「責任がある」と思わない人なら、そんなことで、胸を痛めることはなかった。

「苦しまずに生きること」が生きる目的なら、そんな「意識」は持つべきではない。あの「サピエンス全史」で、動物たちの惨状に胸を痛めることも無用なことになる。

考えると苦しい。でも、その苦しみを避けようと、見ないこと、聞かないことを選ぶのは、卑怯者で、でも、その卑怯者だという自覚さえ持たずにいれば、それはそれでなんの問題もない世界であり…そのような自覚を持たずにいる人々の群れも確かにいて…

と、そんなことを考えると、ため息ばかりが出てしまいます。