読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

サピエンス全史  上 <真の信奉者>

「ここまでの数段落を読みながら、椅子の上で身悶えした読者も少なからずいたことだろう。今日、私たちの多くはそうした反応を見せるように教育されている。

ハンムラビ法典は神話だと受け容れるのは簡単だが、人権も神話だという言葉は聞きたくない。もし、人権は想像の中にしか存在しないことに人々が気付けば、私たちの社会が崩壊する危険はないのか?


ヴォルテールは神についてこう言っている。「神などいないが、私の召使いには教えないでくれ。さもないと、彼に夜中に殺されかねないから」と。」


「そのような恐れはしごくもっともだ。自然の秩序は安定した秩序だ。重力が明日働かなくなる可能性はない。たとえ、人々が重力の存在を信じなくなっても。


それとは対照的に、想像上の秩序は常に崩壊の危険を孕んでいる。なぜならそれは神話に依存しており、神話は人々が信じなくなった途端に消えてなくなってしまうからだ。想像上の秩序を保護するには、懸命に努力し続けることが欠かせない。


そうした努力の一部は、暴力や強制という形を取る。軍隊、警察、裁判所、監獄は、想像上の秩序に即して行動するよう人々を強制するために、休むことなく働いている。(略)1860年にアメリカ国民の過半数が、アフリカ人奴隷は人間であり、したがって自由という権利を享受してしかるべきだと結論した時、南部諸州を同意させるには、血なまぐさい内戦を必要とした。」



「たった一人の聖職者が兵士100人分の働きをすることはよくある。それも、はるかに安く、効果的に。そのうえ、銃剣がどれほど効率的でも、誰かがそれを振るわなければならない。


自分が信じていない想像上の秩序など、兵士や看守、裁判官、警察がどうして維持するだろうか?

人間の集団活動のうちで、暴力ほど組織するのが難しいものはない。(略)


軍隊を強制だけによって組織することは不可能だ。少なくとも、一部の指導官と兵士が、神、名誉、母国、男らしさ、お金であれ何であれ、ともかく何かを心から信じている必要がある。」


「だから冷笑家は帝国を建設せず、想像上の秩序は人口の相当部分(それも、とくにエリート層や治安部隊の相当部分)が心からそれを信じている時にだけしか維持できない。


キリスト教は、司教や聖職者の大半がキリストの存在を信じられなかったら、2000年も続かなかっただろう。


アメリカの民主主義は、大統領と連邦議会員の大半が人権の存在を信じられなかったら、250年も持続しなかっただろう。近代の経済体制は、投資家と銀行家の大半が資本主義の存在を信じられなかったら、一日も持たなかっただろう。」


〇「たとば(神)などはいない。でも、(神)を信じる虚構が協力を可能にした」というような話は、以前、「プジョー伝説」というたとえ話で、語られました。

「想像上の現実は噓とは違い、誰もがその存在を信じているもので、その共有信念が存在する限り、その想像上の現実は社会の中で力をふるい続ける。」

「サピエンスはこのように、認知革命以降ずっと二重の現実の中に暮らしてきた。一方には、川や木やライオンと言った客観的現実が存在し、もう一方には、神や国民や法人といった想像上の現実が存在する。」

〇この「信じる」というのは、実際に自分がその中に身を投じてみると、とても不思議なことだと思いました。以前も書きましたが、私は宗教などは軽蔑していた人間です。そんな嘘を信じてまで、楽に生きたいのか?と思っていました。

でも、実際に、生きるとなると、一言でいってしまうと、人間って何かを信じて生きない限り、空しい気持ちになって、元気に生きられない動物なんだと、認めるしかなかったのです。

「空の空、その空を生きる」というのもまた、一つの信念だと思います。
でも、何にしろ、何かを信じて生きるしかないのが人間。
多分、そういうDNAが入ってしまっているのでしょう。

だったら、何を信じるか…

冷笑主義か、お金か、何も信じないという信念か…

どうせ信じて生きるしかないのが人間なら、みんなで元気になれて、みんなで幸せになれる(かもしれない)ものを信じたいと思いました。


そして、信じるとなると…
これも不思議なのですが、本当に心から信じて、そこにもう一つの「確かな現実」が生まれてしまいます。不思議だなぁと思います。

私は、このハラリ氏が、そこのところをしっかりと確認してみせてくれているのが、
すごい!と思います。


そして、あと一つ思ったのは、日本人社会は何を信じているのでしょうか?
天皇制?民主主義?

帝国など作らない「冷笑主義者」が多いのか…