読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

サピエンス全史  上 <これはお前たちのためなのだ>

「(略)やがて紀元前550年ごろ、ペルシアのキュロス大王が、それに輪をかけて大げさな自慢をした。

アッシリアの王たちはつねに、アッシリアの王にとどまった。全世界を支配していると主張した時にさえ、アッシリアの栄光を増すためにそうしていることは明らかで、彼らに後ろめたさはなかった。


一方キュロスは、全世界を支配しているだけではなく、あらゆる人のためにそうしていると主張した。「お前たちを征服するのは、お前たちのためなのだ」とペルシア人たちは言った。


キュロスは隷属させた民族が彼を敬愛し、ペルシアの従属者であって幸運だと思う事を望んでいた。自分の帝国の支配下で暮らしている国民の称賛を得るためにキュロスが行った革新的な努力の最も有名な例を挙げると、彼はバビロニアで捕囚となっていたユダヤ人が、ユダヤの故国に戻り、神殿を再建するのを許すよう命じた。


そして、資金援助さえ申し出た。キュロスは自分がユダヤ人を支配しているペルシアの王だとは考えていなかった。彼はユダヤ人たちの王でもあり、だからこそ、彼らの福祉に責任があったのだ。


全世界をその居住者全員の利益のために支配するという思い込みには驚かされる。進化の結果、ホモ・サピエンスは他の社会的動物と同様に、よそ者を嫌う生き物になった。サピエンスは人類を「私たち」と「彼ら」という二つの部分に本能的に分ける。(略)


この民族的排他性とは対照的に、キュロス以降の帝国のイデオロギーは、包括的・網羅的傾向を持っていた。このイデオロギーは、支配者と被支配者の人種的違いや文化的違いを強調することも多かったが、それでも全世界の基本的な統一性や、あらゆる場所と時代を支配する一揃いの原理の存在、互いに対する万人の責任を認めていた。


人類は一つの大家族と見なされる。親の特権は子供の福祉に対する責任と切っても切り離せないのだ。


この新しい帝国のビジョンは、キュロスやペルシア人からアレクサンドロス大王へ、彼からヘレニズム時代の王やローマの皇帝、イスラム教国のカリフ、インドの君主、そして最終的にはソヴィエト連邦の首相やアメリカ合衆国の大統領へと受け継がれた。」


「同じような帝国のビジョンは、世界の他の場所でもペルシアのモデルとは独立して発達した。特に目覚ましいのが中央アメリカとアンデス地方と中国の例だ。伝統的な中国の政治理論によれば、天は、地上のいっさいの正当な権威の源だという。


天は最もふさわしい人物あるいは家系を選び、天命を授ける。するとその人物あるいは家系が、万民のために天下を支配する。このように、正統な権威は当然ながら普遍的だ。」


〇「お前たちを支配するのはお前たちのためだ」というのは、支配者が被支配者をコントロールしやすくするための詭弁だと思っていました。自分は日本人だなぁ、と思います。支配者が被支配者を思いやるなどということはあり得ないこと、と思う気持ちが根強くあります。

でも、現実に、ペルシア王キュロスによって、捕囚から解放され故国に神殿を作る資金援助をされたユダヤ人の子孫であるハラリ氏にとっては、そのようなことは「あり得る」ことなのでしょう。

そして、そう考えると、私たち日本人も、敗戦によって、アメリカに支配され、そのおかげで、基本的人権が与えられ、国民主権憲法がもたらされました。
もし、アメリカに支配されずにいたら、多分今も、天皇主権の世の中で、我らは天皇の臣民、天皇のためならいつでも命を捧げます、と教育勅語を唱えて暮らしていたのでしょう。

「支配者が被支配者のことなど思いやるはずがない」という根強い感覚は、日本人の支配者(安倍総理)のことを思い浮かべるからではないか、と思う今日この頃です。


「中国の統一帝国の初代支配者である始皇帝は、「遍く<宇宙の>六方において万物は皇帝に帰属する……人の足跡がある場所であればどこでも、<皇帝の>臣民とならなかった者はいない……皇帝の慈悲は牛馬にさえ及ぶ。その恩恵を受けなかった者は一人もいない。誰もが自分の屋根の下で安心できる」と豪語した。


それ以降、中国の政治思想だけでなく中国の歴史の記憶の中でも、帝国時代は秩序と正義の黄金時代と見なされた。


公正な世界は別個のさまざまな国民国家から成るという近代の西洋の味方とは逆で、中国では政治的分裂の時期は、混沌と不正の暗黒時代と見なされた。(略)」

〇私自身が、「支配者の慈悲や公正さ」などを、うさん臭く感じるのはともかく、少なくとも、ここに挙げられている帝国の支配者たちは、正義や公正や慈悲を掲げて政治をしようとしているのは、確かだと思います。

以前、ハラリ氏も言っていたように、そうしなければ、大勢を納得させることが出来ない、ということなのでしょう。

それに比べると、私たちの国では、そのようなことは、ほとんど語られませんし、むしろ、そのようなことをいう人は、きれいごとをならべる未熟者のように見られます。実際、政治家は平然と嘘をつき、多くの国民もそれを容認しています。

私たちの国で、こんなにも、不正やでたらめが容認されているのは、なぜなんだろうとあらためて思います。