読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

サピエンス全史   上 <「彼ら」が「私たち」になるとき>

(〇 目が悪くなったのか、文字が見えにくくて困ります。全て太文字にします。)

「多数の小さな文化を融合させて少数の大きな文化にまとめる過程で、帝国は決定的な役割を果たしてきました。思想や人々、財、テクノロジーは、政治的に分裂した地方でよりも帝国の国境内でのほうが簡単に拡がった。


帝国自体が意図的に思想や制度、習慣、規範を広めることも多かった。それは一つには、手間を省くためだった。小さな地区がそれぞれみな独自の法律や書記の方式、言語、貨幣を持っている帝国を支配するのは大変だ。標準化は皇帝たちにとって大きな恵みだったのだ。


帝国が共通の文化を積極的に広めた第二の、そしてやはり重要な理由は、正当性を獲得することだった。少なくともキュロス大王と始皇帝の時代以降、道路の建設であれ流血であれ、帝国は自国の行動は、征服者よりも被征服者の方がなおさら大きな恩恵を受けるよう、優れた文化を広めるのに必要なこととして正当化してきた。

その恩恵は、法の執行や都市計画、度量衡の標準化といった明らかに重要なものや、税、徴兵、皇帝崇拝といった、ときに怪しげなものもあった。だが、ほとんどの帝国のエリート層は、帝国の全住民の全般的な福祉のために働いていると、本気で信じていた。


中国の支配階級は、近隣の人々や外国の臣民のことを、自らの帝国が文化の恩恵をもたらしてやらなければならない惨めな野蛮人たちとして扱った。天命が皇帝に授けられたのは、世界を搾取するためではなく、人類を教育するためだった。


ローマ人も、野蛮人に平和と正義と洗練性を与えているのだと主張して、みずからの支配を正当化した。未開のゲルマン人や身体に色を塗りたくったガリア人は、汚らしい無知な生活を送っていたが、そこへローマ人がやって来て、法で従順にし、公衆浴場で清潔にし、哲学て進歩させたというのだ。


紀元前三世紀のマウリヤ帝国は、ブッダの教えを無知な世界に広めることを使命とした。イスラム教国のカリフは、出来れば平和裏に、必要ならば剣をもって、ムハンマドの教えを広めるという聖なる命を受けた。スペイン帝国ポルトガル帝国は、西インド諸島南北アメリカ大陸で求めるのは富ではなく、真の信仰への改宗者だと公言した。


自由主義自由貿易の双子の福音を広めるイギリスの使命には、日が没することがなかった。ソヴィエト連邦は、資本主義から理想的な労働者階級独裁(プロレタリアート)への止めようのない歴史の流れを促進する義務を負っていると感じていた。


今日のアメリカ人の多くは、自国の政府には第三世界の諸国に民主主義と人権の恩恵をもたらす道義的義務があると主張する_たとえそれらの美徳が巡航ミサイルやF16戦闘機によってもたらされるのだとしても。


帝国によって広められた文化の概念は、もっぱらエリート支配層が生み出したものであることは滅多になかった。帝国のビジョンは普遍的で包括的な傾向を持つので、帝国のエリート層にとって、単一の偏屈な伝統に狂信的に固執するよりも、どこであれ見つかる場所から思想や規範や伝統を採用する方が、どちらかと言えば易しかった。


自らの文化を純化し、自らの根源と見なすものへ戻ろうとする皇帝もいたが、帝国はたいがい、支配している諸民族から多くを吸収した混成文明を生み出した。ローマの帝国文化はローマ風であるのと同じぐらいギリシア風でもあった。」



「ただし、このような文化のるつぼのおかげで、征服された側にとって文化的同化の過程が少しでも楽になったわけではない。(略)


同化の過程は不快で、大きな心の痛手を残すことが多かった。」


「19世紀後期には、教養あるインド人の多くが、イギリス人の主人たちに同じ教訓を叩き込まれた。こんな有名な逸話がある。一人の野心的なインド人が、英語という言語の機微まですっかり習得し、西洋式の舞踏のレッスンも受け、ナイフとフォークを使って食べるのにも慣れた。礼儀作法も身につけて、イングランドに渡り、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンで学び、認定を受けて法廷弁護士になった。


ところが、スーツを着てネクタイを締めたこの若き法律家は、イギリスの植民地だった南アフリカで列車から放り出された。彼のような「有色人(カラード)」が乗るべき三等客車に満足せずに一等客車に乗ると言って譲らなかったからだ。彼の名は、モーハンダース・カラムチャンド・ガンディーだった。」


「西暦48年、皇帝クラウディウスは、元老院に卓越したゴール人を数人迎え、演説の中で彼らについてこう語った。「習慣や文化、婚姻の絆」を通して、彼らは「我々に溶け込んだ」。お高くとまった元老院議員たちは、旧敵をローマの政治制度の中枢へ迎え入れることに抗議した。


するとクラウディウスは次のような事実を挙げて、彼らに耳の痛い思いをさせた。彼ら元老院議員の家族の多くも、もとをたどれば、かつてローマと戦い、後にローマの市民権を与えられたイタリアの部族に属していたのだった。じつは私自身の家族もサビニーニ人の子孫だ、と皇帝は議員たちに指摘した。」


「二世紀には、ローマは一連のイベリア生まれの皇帝に支配された。(略)帝国の新しい市民はローマ帝国の文化を夢中になって採用したので、帝国そのものが崩壊してから何世紀も過ぎても、引き続き帝国の言語を話し、帝国がレヴァント地方の属州の一つから採用したキリスト教の神を信じ、帝国の法に従って暮らした。


同じような過程がアラブ帝国でも見られた。七世紀半ばに打ち立てられた時、アラブ帝国はアラビア人イスラム教徒のエリート支配層と、その支配下にある、アラビア人でもイスラム教徒でもないエジプト人、シリア人、イラン人、ベルベル人との明確な区別に基づいていた。


だが、帝国の被支配民の多くは、イスラム教信仰と、アラビア語と、混成の帝国文化を徐々に採用した。」



「中国では帝国化の事業は更に徹底した成功を収めた。最初は、野蛮人と呼ばれていた民族集団や文化集団がさまざまに入り乱れていたが、2000年以上の間にそれらが中国の帝国文化に首尾良く統合されて、漢民族(紀元前206年から西暦220年まで中国を支配した漢帝国にちなんで、そう命名された)となった。」


「過去数十年に及ぶ植民地解放の過程も、同様に理解できる。ヨーロッパ人は近代に、優れた西洋文化を広めるという名目で、地上の大半を征服した。彼らは大成功を収めたので、何十億もの人がその文化のかなりの部分を徐々に採用した。(略)


彼らは人権や、自決の原理を信奉するようになり、自由主義や資本主義、共産主義フェミニズム国民主義といった西洋のイデオロギーを採用した。


二〇世紀を通じて、西洋の価値観を採用した地元の諸集団は、これらの価値観の名において、ヨーロッパ人の征服者たちと対等の地位を要求した。すべてヨーロッパの遺産である自決、社会主義、人権の旗印の下に、多くの反植民地主義の闘争が起こった。


エジプト人やイラン人、トルコ人がもともとのアラビア人征服者たちから受け継いだ帝国文化を採用し、適合させたのとちょうど同じように、今日のインド人やアフリカ人、中国人は、もとの西洋の支配者がもたらした帝国文化の多くを受け容れつつ、それを自らの必要性や伝統に即して形作ろうとした。」

〇「帝国主義」を肯定的に論じている文章を初めて読んだような気がします。
最初に著者も述べていた通り、帝国主義は悪に決まってる、と思い込んでいましたから、読みながら落ち着かないものがありました。

正直に言うと、帝国主義が本当に「人間を元気に生きられる状況」にしてくれるのなら、ここで言われているようにいいのかもしれない、と思います。

例えば現在のユーロ圏についてなど、よくわからないなりに、素人の私としては、いっそ、一つの国になってしまった方が、いろいろ簡単ではないのか?と思ったことはあります。

でも、最悪、あの「IS」のような国が武力で帝国を目指すとしたら、世界は恐怖そのものになります。そして、本音を言うと、日本の「日本会議」が帝国を目指すのも、うんざりです。日本は自分の国ですし、大事に思っていますが、あの日本会議のように、「国民に主権があるのは間違っている」とか「人権など日本人には必要ない」とかいう人々が帝国を作ったら、どんなことになるだろう、と思います。

帝国主義には今も不信感があります。

でも、世界には、この著者のような信念を持てるほど、国というものに、希望を持つことが出来る人もいるのだなぁと思いました。

本当は、そういう希望を持つことが出来る方が、人としてはずっと前向きに、多くの人の力を結集して生きられるはずなのに、と思います。

私たちの国の政治は酷すぎます。