読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

ふしぎなキリスト教  まえがき

橋爪大三郎×大澤真幸著 「ふしぎなキリスト教」を読みました。

この本の紹介を見たのは、もうずいぶん前です。読んでみたいなぁと思ったのは、この著者大澤真幸氏に興味を持ったからです。

講談社のPR雑誌「本」の中に「社会性の起源」という文章があり、難しいのですが、面白いと思いました。

自分の頭では理解できないような難しいことをなぜ面白いと思うのか…
いまだにうまく説明できませんが、多分そこに「自分に必要な何か」の匂いを嗅ぎつけているのではないか?と思います。

この「ふしぎなキリスト教」にもその匂いを嗅ぎつけて、読んでみようと思いました。

自分の感想は〇で、引用文は「」でメモします。
(文字使いは、原文のままではありません。意味に違いがなければ、PCの変換のままにしています。)


「「我々の社会」を、大きく、最も基本的な部分で捉えれば、それは、「近代社会」ということになる。それならば、近代あるいは近代社会とは何か。近代というのは、ざっくり言ってしまえば西洋的な社会というものがグローバル・スタンダードになっている状況である。


したがって、その西洋とは何かということを考えなければ、現在の我々の社会がどういうものかということも解らないし、また現在ぶつかっている基本的な困難が何であるかもわからない。


それならば、近代の根拠になっている西洋とは何か。(略)だが、その中核にあるのがキリスト教であることは、誰も否定できまい。一口に「キリスト教」と言ってもいろいろあり、対談でも話題にしているように、大きく分けただけでも、ローマ中心の西側のキリスト教カトリック)と正教会(オーソドクシー)とも言われる東側のキリスト教がある。


西洋の文明的なアイデンティティの直接の根拠になっているのは、西側のキリスト教であり、とりあえずは、これを「キリスト教」と呼んでおこう。西洋とは、結局、キリスト教型の文明である。つまり、西洋は世俗化してもなおかつどこかキリスト教に根を持っていることが大きく効いているいるような社会である。


近代化とは、西洋から、キリスト教に由来するさまざまなアイデアや制度や物の考え方が出てきて、それを、西洋の外部にいた者たちが受け入れてきた過程だった。大局的に事態を捉えると、このようにいうことが出来るだろう。


ところで、この事実が、日本人にとっては大きなつまずきの石になっている。以前、橋爪大三郎さんが私との私的な会話で使われていた表現をお借りすると、今ある程度近代化した社会の中で、近代の根っこにあるキリスト教を「わかっていない度合い」というのをもしIQのような指数で調べることが出来たとしたら、おそらく日本がトップになるだろう。


それは日本人が特に頭が悪いということを意味しているわけではない。そうではなくて、日本があまりにもキリスト教とは関係の無い文化的伝統の中にあったことがその原因である。」


「しかし、現代、我々の社会、我々の地球は、非常に大きな困難にぶつかっており、その困難を乗り越えるために近代というものを全体として相対化しなければならない状況にある。それは、結局は西洋と言うものを相対化しなければならない事態ということである。


こういう状況の中で、新たに社会を選択したり、新たな制度を構想すべくクリエイティヴに対応するためには、どうしたって近代社会の元の元にあるキリスト教を理解しておかなければならない。」



「そこで私(大澤)が挑発的な質問者となって、ときに冒瀆ともとられかねない問いをあえて発し、橋爪大三郎さんに、それに答えながら、キリスト教というものが何であるか、キリスト教が社会の総体とどのように関わってきたかを説明して頂いた。」



「対談は、全部で三回である。まずキリスト教のベーシックな考え方になる、あるいはその背景にあるユダヤ教との関係で、掲示宗教としての一神教の基本的な考え方をはっきりさせて(第一部)、その次にキリスト教のきわめて独創的な側面である「イエス・キリスト」とは何であるかを考え(第二部)、最後にキリスト教がその後の歴史・文明にどのようなインパクトを残してきたかということについて考えて行く(第三部)。」