「H というわけで、ヨナは、言われた通りに予言をした。そうしたら、ニネベは悔い改めたんです。悔い改めたから、ヤハウェはニネベを破滅させないことにした。そうしたらヨナは怒った。「えっ、私は何のために来たの?」。
ヨナはニネベが破壊されるのを楽しみにしていたのです。そうしたらヤハウェは、いや、私は悔い改めたニネベが栄えるのを見るのが嬉しい、と答える。
ヤハウェは、すべての民族のことを心配する神になっちゃったんです。」
「O ユダヤ教の神様というと、ユダヤ人という特殊な民族のための神様だと思いがちですが_まあ客観的に言えばユダヤ人の神様なんですけど_、ユダヤ人の観点からすれば、宇宙全体を統轄する、すべての民族の神様なんだということですよね。
ある意味で、トラウマにさえなり得ることだと思います。何故私たちが選ばれたのか?という疑問が原理的に解けないからです。(略)
ユダヤ人は、この衝撃をどう受け入れているのでしょうか?」
「H 選ばれたことを、理由はわからなくても、感謝して受け入れます。
さっきのいじめられっ子の心理だと、「なぜ自分だけがいじめられるんだ?それは自分が、選ばれたからなんだ」というふうに、コンプレックスをプライドに変換できる。もっとも、そんなプライドがあると、なおいじめられるから、またコンプレックスがうまれる。コンプレックスがあるからプライドを持つようになったのか、その逆なのか、もうわからなくなる。(略)
アブラハムの妻サラは子供に恵まれなかったので、サラの勧めで、アブラハムは仕え女ハガルの寝床に入った。そして、イシュマエルという男の子が生まれた。ところがその後、高齢のサラにも息子(イサク)が生まれたので、ハガルとイシュマエルの親子二人は天幕を追い出されます。
ああ死んでしまうのですねと砂漠で泣いていると、神の使いが現れて、イシュマエルは砂漠の民(アラビア人)の先祖になるのだと、勇気づけた。アラビア人は、こうしてユダヤ人から分かれたと考えられている。」
一神教は、たった一人しかいない神(God)を基準(ものさし)にして、その神の視点から、この世界を見るということなんです。たった一人しかいない神を、人間の視点で見上げるだけじゃダメ。それだと一神教の半分にしかならない。
残りの半分は、神から視たらどう視えるかを考えて、それを自分の視点にすることなんです。
「H 一神教の神は、自分が正しさの規準なので、「あなたはなぜ正しいのですか」と聞いても、理由を教えてくれない。端的に正しい。そういうものなんです。人間のつとめは、神の言うとおりにすること。なかなかうまく行かなくてもへこたれないで、「この瞬間も神は私のことを考えてくれているんだ」と信じて、神と対話しながら、神に従い続ける。こういうコミュニケーションを絶やさないことが、神の最も望むところである。
人間にとっては、人生のすべてのプロセスが、試練(神の与えた偶然)の連続なのであって、その試練の意味を、自分なりに受け止め乗り越えていくことが、神の期待に応えるということなんです。
ユダヤ民族も、外国と戦って連戦連敗といった状態ですが、戦争に勝つか負けるかは実はあまり問題じゃない。試練なんですから。
試練とは、神が人間を「試す」という意味ですね。神は人間を試していいんです。人間が神を試してはいけない。」
〇この太文字にした部分は、私の中にもある感覚です。「戦争に勝つか負けるか…」ではなく、いわゆる「勝ち組になるか負け組になるか」はあまり問題じゃない、ということになりますが。
そして、この「試練(神の与えた偶然)」という言葉の、神は偶然を与えるという感覚が、自然の摂理から覚りをひらく仏教にも似ているように感じます。
「この世に生まれたくて、生まれる人間はいない。
私たちは、暴力的に投げ出されるようにこの世に誕生する。
両親も
生まれ育つ環境も
容姿も
能力も
みずから選ぶことはできない
何割かの運のいい子どもは、生まれながらにして、幸せのほとんどを
約束されている。
彼らは豊かで愛に満ちた家庭で育ち、多くの笑顔に包まれながら
成長していくだろう。
しかし何割かの運の悪い子どもは、生まれながらにして、不幸を背負わされる。
そして自分の力では抗うことができない不幸に苦しみながら成長していく。
大人たちの勝手な都合で、不幸を強いられるのだ。
そういう子どもたちに不良のレッテルを貼り、夜の街に追い出そうとする
大人を、私は許すわけにはいかない。」
という現実の世界が、「神の与えた偶然」の世界と見えてきます。