読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

ふしぎなキリスト教  9 全知全能の神がつくった世界に、なぜ悪があるのか

「O しかし、そういう不可解な神様を受け入れるに至るまでの過程や社会的メカニズムがあったはずです。あるいは、そのような神の存在を前提にすることが、その人びとの生き方の中でいかに説得力があると実感される、客観的な原因があったはずで、それを知りたいと思います。(略)

キリスト教の神学でもしばしば話題になることですけど、神が全知全能でそれほどまでに完璧であるとすれば、なぜ我々が住んでいるこの世界、神が創造したこの世界は、これほど不完全なんだろうか。よく提起される疑問は、神が造った世界の中になぜ悪があるのか。(略)


一番わかりやすい例は、先ほどの大洪水の話ですね。神は天地を創造したのに、なぜノアのところでリセットボタンを押したのか。ようはちょっと失敗しちゃったからでしょう。(略)


その他、「我々」が様々な不幸や苦難にあうということに関しても、不可解と言えます。こんな不幸な目に遭うのは、神がいけないのではなく、「我々」が間違っているからなんだと解釈するとしても、それならばなぜ、そんな間違いを犯すような「我々」を神は作ったのだろうか、という疑問が出てきてしまう。」



「O もし、神にとって予想外のことが起きているなら、神は全知ではなくなってしまいます。つまり「全知全能」としばしば一セットで言われますが、全知と全能とは両立しないようにも感じられます。」


〇この疑問のあれこれ、私もほとんど同じようなことを考えたなぁと思いながら読みました。ここに「宗教」があって、それを信じられるか信じられないか?と検討を重ねる時、このような疑問が数限りなく出てきます。

そして、私も、自分の生き方に必要なものとして宗教を選ぶなら、全ての宗教をしっかり調べて比較して、どれを選ぶのか決めなければ、ダメじゃないか?と思った時期がありました。

でも、そんなことを考えて仏教やキリスト教の本を読みながら、まずわかったのは、私にはよくわからない…ということでした(>_<)

それでも、全ての宗教を調べる必要があるとすれば、多分私の能力では、調べ終わる前に、人生は終わってしまうだろう、と思いました。

そして思い浮かべたのは、例えば結婚…どの人と結婚すべきか、全ての出会った男を調べて、自分に合うのかどうか検討を重ねてから相手を選ぶとしたら、多分、結婚なんて面倒くさくてしたくなくなるだろう、と思いました。

もともと、他人と一緒に暮らすなんて、頭で考えている段階では、嫌な面の方が多い、と感じていました。だから、自分は多分結婚しないだろう、とも思っていました。

でも、大自然は人間の男女を結び付けるように造った。その自然の法則に従って、私も結婚しました。

私にとっての「宗教」は、少しそれに似ています。

話は飛びますが、十代の頃、私は自分の頭の中で自分なりの「宗教」を生み出したことがあります。自分だけの神を作り、自分だけの掟を作り、自分だけの心の支えにしようとしました。

そして、その後の色々な出来事も重なって、人間は宗教を必要としている、と思うようになりました。

頭で考えると結婚は鬱陶しいものでも、実際に動物のヒトである私は、それほどの違和感なく、ヒトの男と一緒に暮らすことが出来た。

人間は、頭だけではなく、身体でも生きてる、心でも生きてる、それぞれに必要なものを理屈ではなく調達して生きてる、そう思うようになりました。

そして、自分の頭ではわからないことがいっぱいある世界なのだと、思いました。
心から好きだ、と思う人とだったら、どんな苦労でも一緒に出来る。
それと同じように、心から好きだ、と思える宗教なら、そして、反社会的ではないルールを掲げている宗教なら、自分の生き方にしてもいい、と決断しました。

とは言え、一番には、以前も書きましたが、苦しかった時に「信頼する」ということを教えてくれた、牧師先生の存在があったと思います。


「H 世界が不完全であることは、信仰にとってプラスになる、と思います。

O それはどういう論理ですか?

H まず、「神(God)が唯一で、全知全能」という一神教の考え方が、どういう考え方と対立しているか、考えてみましょう。


インドのヒンドゥー教、これは一神教じゃない。中国の儒教、これは一神教じゃない。日本の神道、これは一神教じゃない。他に、仏教も、一神教とは言えない。


仏教も、この世界を、完全に普遍的に合理的に理解しようという点では、一神教と似ています。儒教も、人間が生きているこの世界を、完全に普遍的に合理的に理解しようという点では、一神教と似ています。


まあ、一神教ほど徹底していないかもしれないが。
では、一神教は、これらの宗教と、どこが根本的に違うのか。
まず、一神教は、この世界の全ての出来事の背後に、唯一の原因がある、それも、人間のように人格をもつ、究極の原因=Godがある、と考える。背後に、責任者がいるんです。仏教、儒教神道は、このように考えない、ここが違う。


もう少し言うなら、その責任者(God)は、意思があり、感情があり、理性があり、記憶がある。そして大事な事ですが、言葉を用いる。要するに、人間の精神活動とうり二つなのです。


実際、世界は言葉によって造られた。「光あれ」と言うと、光があった。そして、意思して、イスラエルの民を選んだ。その民に、預言者を通して語り掛ける。言葉でなしに、大雨とか災害とか、イナゴの大群とか、自然現象を通じて働きかける場合もあるけれど、それもGodが引き起こしている。すべては、Godからのメッセージなんです。


多神教とどう違うか。多神教は、自然現象の背後に、神(責任者)を考えるところは似ている。けれども、それぞれの自然現象の背後に、それぞれの神がと考える。(略)

するとどうなるか。自然は、神々のネットワークになるでしょう。ネットワークだから、どの神も究極の支配権を持てない。(略)


人間社会とよく似たものになるのです。」



「H 次に仏教の場合。仏教は言ってみれば、唯物論です。自然現象の背後に神などいない。すべては因果律によって起こっているだけ、と考える。人間も死んでしまえば分解して、アミノ酸になり、微生物に食われ、そうした生命の源となり、それがまた別の生命に形を変え、食物連鎖みたいな生命循環があって…。そこには、因果法則があるだけで、誰かの意思が働いているわけではない。


それを言うなら、天体だって地球だって、気象だって生態系だって、すべて自然法則に支配されているにすぎない。そういう、自分たちを取り巻いているこの宇宙の法則を、どこまで徹底的に認識したかが勝負であって、それを徹底的に認識した人が、仏(ブッダ)と呼ばれるわけです。


仏といえども、この宇宙を支配する法則を、一ミリでも変えることができるわけじゃない。そうした法則を、ありのままに徹底的に認識し、一切の誤解や思い違いがなく、自分と宇宙が完全な調和に到達した状態、それが理想なのですね。


法則には、人格性がありません。ブッダとは対話できても、法則とは対話ができない。法則は、言葉で出来ていない。言葉で表現するのが困難である。ここに、ブッダの悩みがあって、ブッダはせっかく究極の知識を手にしているのに、それを言葉にできない。ゴータマ・シッダルタが覚った真理を、言葉で伝えて次々ブッダを量産する、というわけにはいかないのです。
別な人間は、最初からもう一回始めるしかない。


儒教の場合はどうか。
儒教は自然をコントロールすべきものと考えている。コントロールの手段は、政治です。政治は、大勢の人々が協力することなので、人々の中のリーダーが、リーダーシップを発揮しないといけない。それには、政治的能力が必要になる。そうした能力を持っていそうな人を見つけ、訓練して、その能力を伸ばす。


リーダーを訓練して、いい政治をさせる。これが儒教で、政治的リーダーを訓練するシステムなのです。その訓練のマニュアル(古典)があって、みんなそれを読んで勉強する。
儒教はこんな具合で、宇宙の背後に人格があるという考え方がない。人格を持っているのはリーダー(政治家)で、政治家のほかには、自然や宇宙があるだけ。神々もいたとしても、怪力乱神などといって、無視すべきものと考えている。


儒教朱子学になると、リーダー(政治家)の背後に天がある、などと抽象的なことを言い出す。とは言え、天も、その元とされる理や気も、人格ではない。言葉でできているわけでもない。そうするとコミュニケーションは、政治的コミュニケーションに限定される。


王や皇帝の命令とか、政府の行政指導とか。あとは、官僚たちが業務のあいまに、人間的な心情をうたってみたら、詩になったりとか。


儒教って?と思ったことがありますが、じゃあ私のようなただの庶民には、ほとんど意味のない宗教ということになるのでしょうか。


「H ひるがえって一神教の場合、Godとの対話が成り立つのです。それは、Godが人格的な存在だから。「神様、世界はなぜこうなっているんですか」「神様、人間はなぜこんな苦しみにあうのですか」。そう訴えてもいいし、感謝でもよいので、Godへの語り掛けを繰り返す。


このGodとの不断のコミュニケーションを、祈りといいます。
この種の祈りは、一神教に特有のものなんですね。祈りを通して、ある種の解決が与えられると、赦しといって、Godと人間の調和した状態が実現する。赦しがえられるまでは、悩みや苦しみに圧倒され、Godのつくったこの世界を受け入れられない、理解できない、という状態が続く。


一神教は、すべてをGodが指揮監督していると信じるのですが、するとしばしば、理不尽な感情に襲われます。たとえば、なぜ私の家族や大事な人が重い病や事故にみまわれるのだろう。なぜ自分の努力が報われないのだろう。

なぜ悪がはびこり、迫害が続くのだろう、というふうに。一神教でなければ、仏教や儒教神道なら、運が悪いとか、悪い神様のせいだとか考えれば済みます。


一神教では、すべての出来事はGodの意思によって起こるので、そう考えて済ますことが出来ない。そこで、不断の対話を繰り返すことになる。(略)


そうすると、残る考え方は、これは試練だ、ということ。このような困った出来事を与えて、私がどう考えどう行動するのか、Godが見ておられると考える。祈りは、ただの瞑想と違って、その本質は対話なのです。


付け加えると、祈りのあり方は、キリスト教イスラム教ではちょっと違っている。キリスト教の祈りは、外から見えない。これみよがしに祈るな、とイエスが命じたから。イスラム教の祈りは、外から見える。仲間と一緒に祈ることで、ムスリムであることが自他ともに確認できる。」