読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

ふしぎなキリスト教  11 なぜ偶像を崇拝してはいけないのか

「O たとえば「ヤハウェ」という名も_それが意味するものについては多様な解釈がありますが_、一つの有力な説によれば、「存在するもの」というような意味になるわけです。


要するに、神とは、存在の中の存在というか、最も強烈に存在するもの、普通の存在者を超えて存在するものです。
では存在って何だろうか。(略)



このように考えた時、偶像崇拝の厳禁とともにある神というのは、ようはどんな方法によってもその存在を確認できない神、ということになります。(略)


もう一度繰り返すと、偶像崇拝の禁止というのは、存在の否定が存在の極大値だよ、という感受性に規定されている。これは、やはり非常に理解し難い。いかがですか?


H ずばりと本質を突く素晴らしい質問ですね。まさに一神教を理解する急所です。
さて、二つぐらいのことを答えたい。
まず、一神教はそんなに特別じゃない。特別だけど特別じゃない、ということを議論の全体として言いたいです。


一神教monotheisumは、多神教polytheismと対立している、とふつうは言われる。でも、よく考えてみると、もう少し違ったところに対立軸がある。一神教ユダヤ教キリスト教イスラム教)のほかに、古代にはいろんな宗教がほぼ同時に興っているでしょう。インドでは、仏教。中国では儒教。これらが典型的ですが、共通点があって、それまでの伝統社会の、多神教と対立しているんです。


伝統社会の多神教は、まあ日本の神道みたいなもので、大規模農業が発展する以前の、わりに小規模な農業社会か、狩猟採集社会のもの。素朴で、自然とバランスをとっている人々の信仰なんです。山林原野もあって、その土地に育った人々が大部分で、よそから移ってきた異民族はあまりいない。


だから、自然と人間は調和し、自然の背後にいる様々な神を拝んでいればすむ。
日本は、先進国としてはめずらしく、こんな信仰が現在まで続いているんですけど、これほど幸運な場所は、世界的にみても、そう多くない。


それ以外のたいていの場所ではどうなるかというと、異民族の侵入や戦争や、帝国の成立といった大きな変化が起こって、社会が壊れてしまう。自然が壊れてしまう。もとの社会がぐちゃぐちゃになる。


ぐちゃぐちゃになってどうするか、というのが、ユダヤ教とかキリスト教とか、仏教とか、儒教といった、いわゆる「宗教」が登場して来る社会背景なのです。そういう問題設定が、まず、日本にはない。だから、そうした宗教のことがわからない。


で、ぐちゃぐちゃになっても、人間が人間らしく連帯して生きていくにはどうしたらいいかの戦略なんですけれど、一神教と仏教と儒教には、共通点がある。それは、もう手近な神々に頼らないという点。神々を否定している点です。(略)


仏教は、自然を、物理的因果関係のかたまりとみて、その法則性を認識しようとする。神秘はどこにもない。宇宙、生態系、自然。そういう自然界の真理に、もろに人間の知性が接触しているんですね。とても、合理的なんです。


儒教はどうか。(略)どんどん脱魔術化されて、政治技術がマニュアルに還元され、神秘的な要素は儒学から放逐されていく。神々はいなくなって、天だけが残った。天は人格を持たない。悪さをしないし、魔術とも関係がない。


一神教もほぼ同じです。一神教は、神々との闘争の歴史で、そうした神々は神ではない、全部ウソだというのです。いっぽう一神教の神ヤハウェはどこにいるかというと、この宇宙の外側にいて、ありありと存在している。(略)


ヤハウェは神々を作るはずがありませんから、神々は人間が作ったものです。ゆえに、偶像です。人が作ったものを、人が拝むことを、偶像崇拝という。これは、大きな罪になる。ヤハウェに背き、自分を拝んでいるのと同じだからです。



神々を否定し、放逐してしまうという点で、一神教と、仏教、儒教はよく似ている。そして、日本と正反対なんです。この根本を、日本人はよく理解する必要がある。神道多神教で、多神教は世界にいっぱいあるじゃないか、なんて思わない方がいい。


神々は放逐された。だから、仏教、儒教一神教がある。世界の標準はこっちです。世界は一度壊れた。そして、再建された。再建したのは、宗教です。それが文明を作り、今の世界を作った。こう考えて下さい。


偶像崇拝がなぜいけないか。大事な点なので、もう一回確認しておきます。偶像崇拝がけないのは、偶像だからではない。偶像を作ったのが人間だからです。人間が自分自身をあがめているというところが、偶像崇拝の最もいけない点です。



余談ですが、偶像崇拝がいけないという論理が、マルクス主義にもあるでしょう?資本主義がいけないのは、疎外→物象化→物心化というプロセスによって、人間の労働が本当の価値の実態なのに、それが商品になり貨幣になり資本になり、物神崇拝されるに至って、自分が作り出したものをそれと知らずにあがめている転倒した世界だからです。


この論理は、ユダヤ教キリスト教の発想とそっくりだ。」


〇 「世界は一度壊れた。そして再建された。再建したのは宗教です」
という言葉を読んで思い出したのは、「サピエンス全史 下」です。
引用します。

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「したがって宗教は、超人間的な秩序の信奉に基づく、人間の規範と価値観の制度と定義できる。これには、二つの異なる基準がある。

1 宗教は、超人間的な秩序の存在を主張する。その秩序は人間の気まぐれや合意の   
  産物ではない。プロ・サッカーは宗教ではない。なぜなら、このスポーツには多      
  くの決まり事や習慣、奇妙な儀式の数々があるものの、サッカー自体は人間自身
  が発明したものであることは誰もが承知しており、国際サッカー連盟はいつでも
  ゴールを大きくしたり、オフサイドのルールをなくしたりできるからだ。

2 宗教は、超人間的秩序に基づいて規範や価値観を確立し、それには拘束力がある
  と見なす。今日、西洋人の多くが死者の霊や妖精の存在、生まれ変わりを信じて
  いるが、これらの信念は道徳や行動の基準の源ではない。
  したがって、これらは宗教ではない。」


「本質的に異なる人間集団が暮らす広大な領域を傘下に統一するためには、宗教はさらに二つの特性を備えていなくてはならない。


第一に、いつもでどこでも正しい普遍的な超人間的秩序を信奉している必要がある。

第二に、この信念をすべての人に広めることをあくまで求めなければならない。

言いかえれば、宗教は普遍的であると同時に、宣教を行うことも求められるのだ。」

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つまり、国家としての日本には、この感覚がない、ということなのでしょう。

あえてはっきり言えば、世界の中の日本としてやって行くには、この感覚が必要とされるということ。

それを拒否し、昔ながらの日本としてやって行きたいのなら、再び鎖国をして、小規模農業国としてやっていくしかないけれど、そんな選択肢は今やないので、私たちは、この感覚をしっかりと身につけなければならない、ということ。

なのに、未だにあの安倍政権が続いています。結局、私たち日本人社会があの安倍政権を続けさせている。

↑…と、一旦は書いたのですが、少し違うなぁと思い修正します。

世界の中の日本としてやっていくために、西洋の価値観に合わせなければならない、ということではないのだと思います。

今のままの価値観では、私たち日本人、特にこれからを生きる子どもたちが幸せにはなれない、と思うから、世界の常識を受け入れた方が良いと声を大にして言いたいのです。

1、(宗教は)超人間的な秩序の存在を主張する。その秩序は人間の気まぐれや合意の産物ではない。

2、(宗教は)超人間的秩序に基づいて規範や価値観を確立し、それには拘束力がある と見なす。

という価値観を持った方がいい、と言いたいのです。


なぜなら、私たちの国のトップは、簡単に憲法も道徳も踏み躙る、良識も見識もない人間だからです。
戦前の価値観がどれほど一般庶民を苦しめていたのかについて理解しない、人としての想像力に欠ける人間だからです。
人間を国を存続させるための道具として見なす人権意識のない人間だからです。
自分の保身のためには、部下を簡単に犯罪者に仕立て上げ、そ知らぬ顔をする
恥知らずだからです。
自分の都合で、黒を白と言い、噓をつくことをなんとも思わない人間だからです。
そして、権力者がそうなると、周りの政治家も財界人もマスコミも、この現代においてさえ、簡単にその追従者になってしまう体質の人間が多いからです。

私は、なぜ日本人はこんな人間なのか、とずっと考えてきました。
ここに来て、その理由が少しわかってきました。


世界の人々は戦争という大きな苦難を経験し、人間には何が必要なのか、必死に真剣に考え今に至っている。でも、日本人は、島国で外国から侵略されることもなく自分だけの家(価値観)の中で、ある意味、引きこもりの状態で育ったため、世界の常識を知らずにいる。

自分の家(日本)の中では、横暴な権力者(安倍政権)が、自分たちだけに都合の良いやり方で家族(国民)を虐待する。でも、それに対して反抗することすらしない、

今、西欧社会では当然のことと認められている、人権すら国家権力者によって、奪われようとしている。

私たち日本人には、自分で自分の国を浄化する力がない。それをしみじみと味わっているのが、現在です。

せめて、「世界の常識」を持ちだして、私たちの人権を奪わないでほしい、と外国の人々に助けを求めるしかない状況になっています。

悲しくて恥ずかしくて情けないけど、今、私たちの国は、そういう状態です。

だから、この世界の常識を語る言葉に、救いを感じ、私たちの国もそうなるべきだと言ったのです。