「O アマテラスやスサノオがイザナギの子であるのと同じように、イエス・キリストはヤハウェの子なのか。しかし、そうすると、二人の神がいることになってしまって、一神教の大原則に反することになります。(略)
H マトリューシカという人形があるでしょう。ロシアでお土産に売っている。
O 入れ子になっているやつですね。
H そう。(略)
イエス・キリストも、そう言う風になっていると思う。私たちが知っているイエス・キリストは、一番外側の、完成した形なんです。それを順番にさかのぼっていくと、一回り小さな形が出てきて、だんだん小粒になり、一番最後に出てくるのが、歴史的なイエスだと思います。
歴史的なイエスが、どういう順番で、一回りずつ大きくなっていったか。その順番をたどってみます。
まず、ただの人間イエスがいます。彼についてほぼ確実なことは、ナザレで生まれた。父親は大工のヨセフで、母親はマリア。兄弟がいた。自分も大工だった。地元のシナゴークに通い、旧約聖書をよく勉強した。パリサイ派の勉強法で、モーセの律法を学んだと思われる。
結婚もしていただろうが、よくわからない。三十歳前にナザレを出て、洗礼者ヨハネの教団に加わった。そのあと、何人か(あとで十二人の弟子に加わる)を連れて教団を離れ、独自の活動を始めた。
ガリラヤ地方や、パレスチナの各地を訪れて説教をし、預言者のように行動した。あちこちで、パリサイ派やサドカイ派とトラブルを起こした。そのあと、エルサレムに行って、逮捕され、裁判を受け、死刑になった。こういう人物です。
さて、預言者よりも、もう一回り大きい存在が、メシア(救世主)です。
ところが、メシア(キリスト)だと思っていたイエスが、あっさり処刑されて、死んでしまった。天変地異も起こらず、神殿も崩れなかった。イエスに期待して従って来た民衆はもちろん、十二人の弟子たちも失望して、ちりぢりになってしまった。イエスがメシアだと信じられていただけで、死後復活すると想定されていなかったからです。
では、メシアとして人々を救うためにやってきたはずのイエスが、処刑され、復活して天に昇ったのは、どのような意味があるのか。
パウロは、小アジア(今のトルコ)のタルソで生まれたユダヤ教徒で、ギリシア語もうまく、ローマの市民権をもっていた。キリスト教徒迫害の急先鋒だったが、あるとき復活したイエスを見て「回心」し、熱烈なキリスト教徒として活動を開始。各地で宣教を続け、ローマで殉教した。
その間、ローマ人への手紙、コリント人への手紙など多くの書簡を書き、それが新約聖書に収められています。
ようするに、「神の子」は「イエス・キリスト」と同じ意味はなくて、もう一歩踏み込んだ考え方なのです。
O イエス・キリストだったら救世主という意味ですよね。神の子だったら、一段神に近付いていますよね。
H ええ。全然違う意味なのです。でも、普通は区別しないでしょう。ひとまとまりに受け取られている。でも、別のことなんです。(略)」