読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

ふしぎなキリスト教  5 「人の子」の意味

「H 福音書をよく読むと、イエスを「神の子」だと明言していないんです。ヨハネ福音書は明言しているが、これは後から書かれたので、ちょっと違う。マルコ、マタイ、ルカの三つの福音書(共観福音書)は、イエスを「人の子」と言っていて、これはメシアのことなんです。


福音書は、キリスト教がいまの形に完成する以前に書かれているので、イエスが「神の子」であるかどうかに関して、及び腰である。イエスはメシアだ、キリストだ、という立場なんです。これをパウロの解釈で読むのが、キリスト教なのです。(略)


O イエス自身はもちろん、自分のことを「神の子」だとはっきり言うわけではないし、自分が「キリスト」であるとすらも言っていない。ただ、福音書によれば、イエスは、自分のことを三人称的に指す時に、「人の子がどうのこうの」という言い方をしている。


つまり、イエスは、自分を指示するのに「人の子」という言葉をわりに好んで使っていたような気がします。(略)


つまり、イエスは、人々が自分を「キリスト」と見ていることを知っています。(略)


H 「エゼキエル署」(2章1節)とか「ダニエル書」(7章13節)とか、あちこちにありますね。バビロン捕囚の前後からメシアという言い方が出てくるのですが、ユダヤ民族の苦境をひっくり返して救ってくれる人物がヤハウェによって遣わされるという信仰が、どこからともなく起こってきたわけです。


メシアはまず、軍事的リーダー、軍司令官なんです。もっと端的に言えば、どこかの国の王が、解放者としてやって来る。エチオピアの王やペルシアの王が、メシアではないかと考えられた。実際、ペルシャ王キュロスは、新バビロニアを滅ぼして、捕囚のユダヤ人を解放してくれた。


それ以来、事あるごとにメシアがやって来るのではと言われるようになって、メシア待望論が広まるようになります。イエスもそういう時代を生きていた。そのんメシアの別名が「人の子」です。


O (略)
エスは「キリスト」でも「ダビデの子」でも「神の子」でもなく、「人の子」を自称として好んで使った。なぜ「人の子」という表現が、彼には、そんなに好ましく思えたのだろうか。


「人の子」には、一方では、宗教的な重みのないごく平凡な意味と、他方では、ユダヤ教の伝統から来る救世主というコノテーション(含み)との二重性がある。イエスは、その二重性にあえて依拠しているのではないか、などと思ってしまいます。」


〇「サピエンス全史 上」を読んで、私は初めて「ペルシャ王キュロスが捕囚だったユダヤ人を解放してくれた」という歴史の事実を知りました。(多分、学校では、教えられていたのだと思いますが、全く記憶に残っていませんでした)

でも、そう考えると、第二次世界大戦でも、もしイギリスがドイツに勝たなければ、アメリカが参戦しなければ、ユダヤ人の虐殺はその後も続いていたのかもしれません。あの時も、ユダヤ人は、外国の軍隊に救われました。

「外国は自分たちを侵略する」という恐怖は、当然のこととして私の中にあったので、「外国に救われる」という感覚にびっくりしました。