「O まず、「神の子」は何でないか、ということから、逆に、神の子の本質に迫りたい。例えば、日本人が一番陥りがちな勘ちがいとして、「イエス・キリストはキリスト教の教祖です」というような解釈はあり得ると思うんです。(略)
O なるほど、そうでしょうね。
例えば神の子と言うと、「神に子どもや孫がいるのか?」とどうしても思いたくなりますよね。(略)
つまり、神の血縁関係を考えたくなってしまう。(略)
とすると、神の子とは何なのでしょう?(略)
パウロはどう考えていたのか。
ではイエスの役目は何かと言うと、人々に、神の言葉をじかに述べることである。預言者と似ているけれど、預言者は聞いたことを話すでしょう。イエスは聞くのでなしに、自分が話す。ここが違う。自分の頭にあることを、自然に話している。振る舞いは預言者なんだけれども、預言者ではない。そこが、神の子だと考えられる。
で、神の「子」とはどういう意味かというと、親と分離している。イエスはイエスで完結した存在。独立の人格なわけですよ。けれど、この完結した人間存在が百パーセント、神の意思と合致している。つまりそれは、神の意思だとも見なければならない。こういう状態なんですね。(略)
旧約聖書には、血縁関係がなくても、目上の人間や尊敬する師を、「わが父」と呼ぶ例がある。(略)
ここから先は、想像ですが、イエスはこの意味でヤハウェに「わが父」と呼びかけたのではなかろうか。それが弟子たちを通じて、多くの人々に伝わった。そして、ヤハウェが「わが父」ならば、イエスはヤハウェの「子」である、という考えが出てきたのではないか、と考えてみることも出来るかもしれない。」