読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

ふしぎなキリスト教  7 「神の子」というアイデアはどこから来たか

「O まず、「神の子」は何でないか、ということから、逆に、神の子の本質に迫りたい。例えば、日本人が一番陥りがちな勘ちがいとして、「イエス・キリストキリスト教の教祖です」というような解釈はあり得ると思うんです。(略)


H イエスは、旧約聖書を「解釈」しているんです。歴史的存在としてのイエスはそうだと思う。旧約聖書を前提にしなければ、イエスの言っていることは理解出来ない。(略)

自分のアイデア旧約聖書の中に全部書いてある。イエスに聞けば、そう答えると思う。


O なるほど、そうでしょうね。
例えば神の子と言うと、「神に子どもや孫がいるのか?」とどうしても思いたくなりますよね。(略)
つまり、神の血縁関係を考えたくなってしまう。(略)


とすると、神の子とは何なのでしょう?(略)


H イエスは、自分が「神の子」だとは、思っていなかったと思う。イエス・キリストが神の子だと決めたのは、パウロです。
パウロはどう考えていたのか。
パウロは、三位一体なんてややこしいことは、これっぽっちも考えていなかった。もっと素朴に考えて、イエスは神の子だという結論に達した。(略)


ではイエスの役目は何かと言うと、人々に、神の言葉をじかに述べることである。預言者と似ているけれど、預言者は聞いたことを話すでしょう。イエスは聞くのでなしに、自分が話す。ここが違う。自分の頭にあることを、自然に話している。振る舞いは預言者なんだけれども、預言者ではない。そこが、神の子だと考えられる。


で、神の「子」とはどういう意味かというと、親と分離している。イエスはイエスで完結した存在。独立の人格なわけですよ。けれど、この完結した人間存在が百パーセント、神の意思と合致している。つまりそれは、神の意思だとも見なければならない。こういう状態なんですね。(略)


旧約聖書には、血縁関係がなくても、目上の人間や尊敬する師を、「わが父」と呼ぶ例がある。(略)
ここから先は、想像ですが、イエスはこの意味でヤハウェに「わが父」と呼びかけたのではなかろうか。それが弟子たちを通じて、多くの人々に伝わった。そして、ヤハウェが「わが父」ならば、イエスヤハウェの「子」である、という考えが出てきたのではないか、と考えてみることも出来るかもしれない。」