読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

ふしぎなキリスト教  8 イエスの活動はユダヤ教の革新だった

「O 聖書に、イエスは「権威ある者のように教えたので人々が驚いた」とありますね(マルコ1章22節)。この「権威ある者のように」というのは、イエスが神のように語った、という意味だと思うのですが、いかがでしょうか?(略)


H いや、「権威ある者」とは、パリサイ派の律法学者のようにではなく、預言者のように語った、という意味にとるのが普通だと思います。もちろん、イエスは普通の預言者と違うのだとしても。


それでね、当時のユダヤ教のグループには、パリサイ派サドカイ派のほかに、エッセネ派というのがあって、エッセネ派は、福音書にちっとも出て来ないんです。


エッセネ派は、裁きの人は近いと考えて、人里離れた山の中にこもり、独身主義で祈りの生活を送る、みたいな人々なんですね。独身主義で祈りの生活を送っていたら、五十年もすればその集団は消滅してしまうわけで、だからいなくなってしまったグループなんです。」



「H ナザレ派とはどういう意味かというと、ユダヤ教の内部の運動だという意味です。イエスがやっていたことは、結局、ユダヤ教の革新運動であって、ユダヤ教預言者のように行動した。弟子たちもそう思っていた。けっしてキリスト教の運動をやっていたのではない、と。(略)


O 僕らはイエスというとすごく痩せていて、極貧生活を送っていたようなイメージを持っています。(略)


福音書にも、人々が「人の子(つまりイエス)」のことを「大食漢」「大酒飲み」と批判しているという話が出てきます(マタイ11章19節、ルカ7章34節)。それから、イエスは、たしか「神の国」を婚礼の場に例えて、「花婿がいるとき、断食するやつがいるか?」というようなことも言っています(マルコ2章19節、ルカ5章34節など)。(略)


僕はこうしたイエスの言動に、微妙に享楽的な雰囲気を感じることがあるのですが、このイメージは間違いですか?


H イエスの一行は、いつも空腹で、金もほとんど持っておらず、厳しい旅を続けていたように思います。だから食事に招かれたと思う。
「微妙に享楽的な雰囲気」だったかどうか。時間間隔が違ったのではないかな。イエスは逮捕され、死刑を覚悟していたわけだから、あまり時間がないんです。


終末論的に行動していた、と言ってもいい。終末論的な状況では、禁欲も享楽も、あんまり違いがないんですよ。それを、世界が永続すると思っている普通の感覚で評価しても、正確ではないと思う。(略)


贅沢が贅沢にならないのが、終末論的状況なのです。」