読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

ふしぎなキリスト教  11 愛と律法の関係

「O 橋爪さんが今話されたように、律法のゲームから愛のゲームへの転換が、新約と共に実現するわけです。
この愛のことを、「隣人愛」という。「隣人」と聞くと、身近で親しい人のことだと思うかもしれませんが、そうではない。


罪深い人とかダメな人とかよそ者とか嫌な奴、そういう者こそが、「隣人」の典型として念頭に置かれていて、彼らをこそ愛さなくてはならない。イエスは、自分についてくるものは、父や母や妻や自分の命までも憎まなくてはならない、とまで言っています(ルカ14章26節)。身近な人を赤の他人より優先することは、本当の隣人愛ではない。(略)


ここで僕が疑問に思うのは、どうして律法の部分が保存されているのか、ということです。神の観点からこの疑問を言い換えると、愛が重要であるというのならば、神は、どうして、いきなり愛を説かなかったのか、となります。(略)



実際、キリスト教の真似事のような新興宗教はいっぱいあって、そういうところでは、律法なんて何も言わずに、愛を説いています。(略)


H 愛は、律法が形を変えたものなんですよ。(略)

共通点がある。愛も律法も、どちらも、神と人間との応答である。そして、神と人間との関係を設定する契約である。神と人間との関係を、正しくしようとする努力なんです。(略)


エスは答えて、「第一は、心をこめて、あなたの主である神を愛しなさい(「申命記」6章4~5節)。第二は、あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい(「レビ記」19章18節)。律法はこの二つに尽きている」と述べた。


たくさんあった律法が、たった二条になってしまった。しかも、両方とも、愛なのです。
律法(たとえば、姦淫してはならない)は、守れたかどうか、基準があってはっきりわかる。それに対して、愛は、基準がないから、どうすれば愛したことになるのか、これで十分ということがない。律法としては、空っぽです。


それでも、愛を、神と人間との契約だと考え、もとの律法の枠組みを残した。それはキリスト教が、神が人間と契約を結んだ時の動機を大事にしたからだと思います。(略)



エスはそれを、純粋形にしたんだと思う。まず、呼びかけの対象を、アブラハムの子孫(ユダヤ民族)だけじゃなくした。


O それは重要ですよね。

H 隣人愛の一番大事な点は、「裁くな」ということです。人が人を裁くな。何故かと言うと、人を裁くのは神だからです。人は、神に裁かれないように、気をつけていればいい。神に裁かれないためには、自分が他の人を裁かないということです。愛の中身はこれなんです。(略)


でも、これも神からの呼びかけだから、わかる人とわからない人がいるわけ…。そこで、全員を救うわけにはいかないんですよ。


O 僕が、なぜ律法と愛の関係に拘るかというと、日本人のキリスト教理解は、しばしば二階建ての家屋の二階部分(新約)だけをいきなり受け入れているように思えるからです。


本当は一階に律法(旧約)があって、その上に隣人愛が載っている。だから、日本人はキリスト教がいまひとつ理解できないような気がするんですね。」


〇 ここを読みながら、また「タイガーと呼ばれた子」の二つのシーンを思い浮かべました。


一つ目は、「裁くな」という言葉に関して。

「彼は片方の眉を上げた。「気をつけた方がいいぞ。きみは自分を裁判官にしたてあげ、この事件を裁こうとしている」
「じゃあ、あなたはこのことを言わなければならないと思うの?」」(「タイガーと呼ばれた子」より)

ここでは、シーラが養子候補のアレホを連れて失踪したことに対処しなければならなくなったトリイの同僚のジェフが、シーラの情報を全て公開していない、とトリイを責めているのです。

この「君はこの事件を裁こうとしている」という言葉が責め言葉になっている、ということは、「裁くことは、いけないこと」というルールが人々の中で共有されていることを示しています。それは、私たちの社会には、ない価値観だと思いました。

もう一つは、「愛は律法が形を変えたもの」という言葉に関して。

「「今すぐに?今、セラピー中なのよ」と私は言った。
「ええ、トリイ。今すぐ来た方がいいと思うわ」(略)(「タイガーと呼ばれた子」より)

というシーンがありました。セラピー中は、どんな電話も取りつがないという
規則を破り、ロザリーがトリイのポケベルに連絡を入れました。
ロザリーは、ここで規則(律法)を破っています。
その規則よりも、シーラのFAXに対応する方が、「隣人愛」という「律法」に適うことだと彼女は考えたのだと思います。

そして、それがあったから、シーラは文字通り救われました。
もし、ロザリーがそうしなかったら、多分シーラは砂浜の一粒の砂のように、
もう、トリイの手の届かない所へ行ってしまったかもしれません。

そして、逆のことは、あのアイヒマンの行動であり、ペットショップの犬猫を買う人の行動であり、肉汁たっぷりの子牛のステーキを食べる人の行動だと思います。

アイヒマンは、ナチの規則に従っていただけ。ペットショップでの「買い物」は合法的な経済行動。そして、畜肉を美味しく食べることは、私たちの誰もがやっていること。

何も誰も悪いことはしていない。「愛」という観点から見ることさえしなければ。