読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

ふしぎなキリスト教  16 不可解なたとえ話2 ブドウ園の労働者・放蕩息子・九十九匹と一匹

「O 次に紹介する「ブドウ園の労働者」というたとえ話はもっと有名です。(略)

H これは有名なエピソードですね。夕方雇い入れた人は一時間ぐらいしか働いていない。賃金を払う段になって、「後から雇った者から払ってやりなさい」と主人が言った。夕方雇い入れた者に一デナーリ(一日の日当)が支払われた。それで、もっと長く働いた人々は、あいつが一デナーリなら、自分たちはもっともらえると期待した。

O 当然そうでしょうね。

H そうしたら、みんな一デナーリだった。(略)
ふつう、これをどう解釈するかというと、幼児洗礼を受けたりして子供の頃からキリスト教徒である人と、大人になって信徒になった人、晩年に病床で「駆け込み」洗礼を受けた人の、誰が神の国に行くでしょう、という例えだと考える。(略)


H そのことについて、幼児洗礼を受けて長年クリスチャンをやっている人が文句を言ってはいけない。それは主人の権限だから。(略)


O それのもっとひどいヴァージョンは「放蕩息子」の例えですよね。(略)
ここでは、真面目に働いた人とただ怠けて遊んでいた人とで、後者の方が歓迎されている。これも、正義や公正の論理に反していませんか。どこかの会社が放蕩息子方式で賃金を支払っていたら、まじめな社員はみんな辞めちゃうか、誰も仕事をしなくなって、会社がつぶれちゃいますよ。


H それを凝縮しているのが、「九十九匹と一匹」の話ですね。

O いなくなった羊の話ですね。

H 九十九匹の羊を置いて、いなくなった一匹を探しに行くんです。それを見つけた時の喜びは、九十九匹の羊を忘れるほどだと書いてある。(略)

H 神の目から見れば全く同じ。と言うか、むしろ、それだけ神のことを忘れ果てていた人が、最後の瞬間に神の方を向いたら、神はそれだけ喜ぶわけだ。へそ曲がりかな?

O いや、それはそれで深く考えることもできますから、いいと思います。(笑)」


〇 私も例え話に関しては、何度も何度もおかしいと思いました。でも、段々わかってきたのは、イエスは、不特定多数の人々に一般論を言っているわけではないんですよね。目の前で問題を抱えている人がイエスに助けを求めている時に、その人に対して、話しているのです。という説明を聞いてから、なるほど、と思うようになりました。


例えば、私の子どもが、「お母さんは子供の中で誰が一番かわいいの?誰が一番好き?」と訊いてきたら、その子が、Aだったら、「Aちゃんが一番かわいいよ、一番大好きだよ」と答えます。で、Bが訊いてきたら、「Bちゃんが一番かわいいよ、一番大好きだよ」と答える。

その時、「本当は誰がかわいいのか」という一般論は意味をなさない。
事実、本当に、どっちも一番かわいい。
というようなことなんだと思います。


この九十九匹対一匹を見ると、あの苦海浄土にあった、

「坐りこみにゆくにも銭の要る。思いつめにゃでけん。水俣の町の角には立てません。市民が憎みますけんな。よその町に行こうだい、ちゅうて、よその町の角に立ってカンパばお願いしました。」

という文章の、「水俣の町 対 患者」の構図を思います

「九十九匹の水俣の町を守るために、一匹の患者を見捨てていいのか」ということです。神は、九十九匹を置いておいても、一匹を見捨てない、ということ。

こんなことをこんな大昔に言ったイエス・キリストはすごいと思うのです。