読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

ふしぎなキリスト教  2 教義は公会議で決まる

「H 一神教の特徴は、「人間のもの」と「神のもの」を厳格に区別する。そして、「人間のもの」に権威を認めないことです。ところが、どうしてもある「解釈」(人間のもの)を下さないと教会が集団としてまとまらなくなる。ではどうする?


聖書の編纂はすんでいるし。
そこで考えられたのが、公会議です。
これは、各地の教会の指導的立場の人々(主教)がみな集まる会議で、キリスト教の正しい教義(ようするに、解釈)は何かを議論する。そして、結論を出す。議論が分かれた場合は、多数派が正しいとされ、「正統」になります。


少数派は多数派に従わないと、「異端」として教会から追放されてしまう。キリスト教会はこれを何回も何回も繰り返したんですね。


なぜこんなことが出来るかと言うと、公会議に、聖霊が働いているからです。人間が集まって下した結論(どの解釈が正しいか)でも、解釈を超えたものになる。公会議の決定には、すべての信徒は従わなければならない。これがキリスト教の習慣です。


三位一体説も、そうやって決定された。学説としては問題が多く、有力な反対意見も多かったんですけど、すったもんだの末、381年の、第一回コンスタンティノープル公会議でほぼ今のかたちに決定された。


公会議は、全部で六回(数え方によっては七回)開かれた。(略)


O このイジュマーキリスト教公会議とは似たようなものと考えていいんですか?


H だいぶ性格が違います。公会議では、意見の対立があるから、それを決着するんです。イスラムイジュマーは、全員一致でなければ決定できない。

もしも、意見の違いがあれば、多数であっても少数であってもそれは人間の意見であって、神のものではないことになる。ゆえに、どちらをとったとしても間違い。多数決はないんです。でも公会議は多数決。多数決ですらない場合もある。

O (略) キリスト教の場合、第二部で確認したように、福音書の間にすでに不一致があります。神は単一ですが、それを経験した人間の視点や見解には多様性があって、そうした違いは聖典である新約聖書の中に孕まれている。(略)


しかし、キリスト教では、公会議でさまざまな意見が出るのは当たり前のことです。つまり、不一致があるということをあからさまな前提にしながら結論を導くのではないかと思います。だからといって、キリスト教が、様々な解釈や意見に対して寛容かと言えば、そんなことはありません。むしろ逆です。(略)



父なる神・子なるキリスト・聖霊の三つが、異なる超越的エージェントということになってしまうと、一神教の根本原則が崩れてしまう。だから、これらは一つでなければならない。でも、それぞれに役割があるのも事実で、必要不可欠である。


では、三つであることと一つであることとをどうやって両立させるか。そこから出てきた、苦肉の策のような結論が、三位一体説ではないか、と思います。


言うまでもなく、同じ一神教であるユダヤ教イスラム教では、こんな問題は出て来ようがありません。」