読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

ふしぎなキリスト教  12 自然科学の誕生

「O すでに述べたことですが、このように、キリスト教の影響というのは、まったくキリスト教的ではないかたちで、あるいはキリスト教そのものを否定するような形で発現することがよくあります。


資本主義の精神はその一例ですが、もっと端的な例は自然科学ではないでしょうか?(略)


そして、その自然科学を生み出した科学革命は、実は時期的に宗教改革の時期とだいたい重なっています。そのうえ、科学革命の担い手となった学者_今風に言えば「科学者」ですが当時はそんな呼び方はありませんから哲学者_は、決して信仰心が浅いわけではない。今はしばしば科学者が宗教批判を熱心にやりますが、科学革命の担い手は、むしろ熱心なキリスト教徒、しかもたいていプロテスタントでした。



だから、今から見れば明らかにキリスト教的な世界観を否定するのに役立ちそうな真理のシステムが、まさにキリスト教から出て来たということになるんですね。こういうことは、たとえばイスラム教や仏教では起こらないと思うのです。


このパラドクスというか、逆説、歴史のアイロニーみたいなものについて、橋爪さんはどんなふうにお考えですか?


H (略)それはすでに述べたように、まず、人間の理性に対する信頼が育まれたから。そして、もう一つ大事な事は、世界を神が創造したと固く信じたから。この二つが、自然科学の車の両輪になります。(略)


たとえば、これを日本の神道みたいに考えれば、山には山のカミ、川には川のカミ、植物には植物の、動物には動物のカミがいるでしょう。山に穴を掘ったり、自然の実験・観察をしようとしたりすると、カミと衝突してしまうわけです。


カミにそれはやめてくれ、と言われてしまう。日本では工事をするのに必ず地鎮祭をするけれど、昔だったらそんなことをするぐらいなら、工事はしなかったんじゃないか。


O まあ、いちおう赦しを乞うているんですね。怒らせないように。

H そうそう。で、一神教では、神は世界を創造したあと、出て行ってしまった。世界の中には、もうどんな神もいなくて、人間が一番偉い。人間が神を信仰し、服従することは大事ですけれども、神が作ったこの世界に対して、人間の主権があるんですね。


本当は神の主権があるんですけど、それが人間にゆだねられている。(略)
世界は神が作ったのだけれども、そのあとは、ただのモノです。ただのモノである世界の中心で、人間が理性を持っている。この認識から自然科学が始まる。こんな認識が成立するのは、めったにないことなんです。だから、キリスト教徒、それも特に敬虔なキリスト教徒が、優秀な自然科学者になる。



優秀な仏教徒や、優秀な儒教の官僚などは、自然科学者になりませんね、自然に興味を持ったとしても。


O 頭が良ければ科学者になるというものじゃないですからね。

H ぜんぜん違います。

O 大事なのは、生のスタイルというか、前提となっている考え方の方ですからね。

H はい。

O (略)でも、一神教にはユダヤ教から始まって、キリスト教イスラム教があるわけです。では、なぜユダヤ教イスラム教からは体系的な自然科学が生まれなかったのでしょう?(略)


あるいは、同じキリスト教でも、東方正教からではなく、カトリックに反抗して出てきたプロテスタントから、自然科学的なものの考え方が出てきました。(略)


H キリスト教が、ユダヤ教イスラム教と違うのは、いわば置き去りにされていることです、この世界に。


ユダヤ教イスラム教は、宗教法(すなわち、世界の中の人間への、神の配慮)があるから、優れた知識人はまず、この宗教法の解明と発展を考える。


それに対してキリスト教は、宗教法がないので、どう生きれば神の意思に沿うことになるのか、途方に暮れる。祈りの生活を送ってみたり、神学をやったり、哲学や自然科学をやったり、創意工夫しなければならない。特に宗教改革が、自然科学に弾みをつけた。


プロテスタントは、神を絶対化します。神を絶対化すれば、物質世界を前にしたとき、理性をそなえた自分を絶対化できる。理性を駆使する自分は、神の似姿になって居ると言ってもいい。


理性を通じて、神と対話するやり方のひとつが、自然科学です。(略)


O ずっと話題になっているように、キリスト教の場合、聖書がかなりあいまいですからね。となれば、神が直接お創りになった自然の方が、神の意図を知るということではより一層優先権があるとも考えられる。


現にガリレオ・ガリレイ_彼は科学革命の初期の担い手だったといってよいと思います_がそんなことをどこかで書いていました。
アリストテレス主義者は真理は「物語の本」にあると思っているが、自然こそが真に偉大な書物なのだ」と。つまり、自然は、聖書以上の聖書だというわけです。」