読んでいる間は一生懸命に考えて、話について行こうと頑張り、それなりにちゃんと読んだのですが、読み終わって今思うのは、私の頭には難しすぎる本だった、ということです。
そこで、今回は、まず自分がこの本からどれほどのものを汲み取れたのかを、自分の言葉で書いてみたいと思います。
学問がめざすのは、真。これは、自明の事。そして社会の制度がめざすのは、正義。これは、ロールズとかいう人が言っているらしい。どれほど都合よくまわる制度でも、もしそこに正義がなければ、その制度はダメな制度だ、と。
ところが、正義は今やどう定義づけてよいのか、あまりにも多くの考え方があり、その集約が不可能な状況になっている。
そこで、大澤氏はその正義について、考えようとしている。
まず、「八日目の蝉」という小説の例をあげ、現代は物語を生きることが不可能になっている時代だという認識をします。
次に「多くの人が幸せに暮らす社会が良い社会」という考え方の普遍性を表す例をあげます。
現代はアリストテレスの時代と違い、資本主義社会になっているので、欲望には何層もの段階があり、その何層もの欲望を生きるのが普通になっている。
(疑問1)だから、物語が不可能になっている、と繋がるのだっけ?
なぜ、そのアクラシアが問題になるのかがわからない。
なぜ、放蕩息子が帰ったのを喜んで、その兄弟以上の待遇をしたのか。
それは、「何者でもない」という状況が悲惨な状況だと知っていたからではないか、と考える。
「これが正義だ」というのは困難でも、「このような状況は避けよう」とする形で正義を捉えることに普遍性を持たせることは可能なのではないか、とします。
そして、最後に「癒す人」という短編小説の例をあげ、傷ついている人、困難を抱えている人その当人が癒す人になり得るのだ、という主張を紹介して、現段階ではまだ「暫定的」だとする大澤氏の正義について、まとめてあります。
と、いうことは、どういうことなんでしょうか?
まだ、「暫定的」と言ってるだけあって、イマイチはっきりとは、
していない感じが残りました。
…と、理解したつもりでいるのですが、全然違ってるのかもしれません。
とりあえず、きちんと理解できなかった、という感じがあるので、少しずつ気になった言葉を取り上げて、もう一度振り返ってみたいと思います。
というのも、私は「正義など幻想だ」という結論が最も嫌な結論なのです。でも、今の日本の社会(というか大昔からそうだったのかもしれませんが)には、大っぴらにそのような雰囲気があって、悲しくなります。