「2 二種類の物神化
<資本主義の枠内にあるリベラリズム>
今皆さんに提出した問題への僕なりの解答は、最後の章で出しますから、一旦わきに置いて、もう少しリベラリズムというものに拘っておきます。さきにアウトラインを言っておきましょう。(略)
〇 実は、ここ辺りから、さっぱりわからなくなってきます。
「<「貨幣への賛歌」>
アイン・ランドはリバタリアンです。ですから、アメリカ風の徹底したリベラリズムに非常にフィットした世界観を、長編小説によって描いているのです。まさに、その世界観は、グリーンスパンの思想的なバックボーンでした。(略)
この本(肩をすくめるアトラス)の中に「貨幣への讃歌」という有名な一節があります。まず、その部分を引用してみます。
貨幣があらゆる善の根源であることを悟らない限り、あなたがたは、自分自身の破滅を要請しているのです。貨幣が、人が相互に取引するときの道具であるのをやめたときには、人は他者の道具となる。流血・鞭打ち・銃か、それともドルか。どちらかを選びなさい_ほかに選択肢はない。(引用者訳)」
「アイン・ランドによれば、貨幣を使う世界だけが、人を全面的に手段化しない_つまり人を奴隷にしない。それに対して、貨幣がなくなれば、人は、他人の奴隷になる_道具になる。」
「<人格的(非限定的)関係と物象的(限定的)関係>
例えば貨幣による取引は、限定的関係あるいは物象的関係の典型例です。(略)それに対して「人格的」、あるいは「非限定的」関係というのは、相手のすべてのアスペクトに、相手の全体に関わるということです。
例えば、貨幣によるやりとりの対象にはならない、友情、恋人、家族という関係はすべて非限定的です。(略)
<商品交換の外部に>
市場での取引、商品交換が限定的・物象的関係だということは、別の観点から言えば、その外部に、非限定的・人格的関係がすべて丸ごと残っている、ということです。(略)
つまり、僕はお金を出しても、物象的・限定的な部分でしか医者を縛れないということです。ということは、医者は、人格的な部分は100パーセント自由な主体であり続けており、したがって、僕と医者はまったく平等です。(略)
貨幣による商品関係は、このように、その関係の外部に「目的の王国」を残すのです。そのように考えると、アイン・ランドの言っていることにも真実が含まれている。貨幣があるおかげで、人は他人の手段に全面的に陥る、ということにはならずに済むのですから。
<人格的支配>
逆に言うと、もっと悲惨なのは、人格的・非限定的なレベルにおいて搾取や支配_従属の関係が生じた場合です。そのことをアイン・ランドは言っているわけです。(略)」
「<二重の意味での自由>
マルクスは、資本主義が可能になるためには、二重の意味で自由な労働者が生まれなくてはならない、と論じました。(略)
第一の自由とは、労働者が、自由な契約主体にならなくてはいけないということです。これは、「物象的な関係の」の外部に「自由の王国」が残ると言った時の自由に関係しています。労働者は、人格的レベルで自由にならないといけない。(略)
しかし、これだけでは、資本主義にはなり得ません。労働者は、別の意味で自由でなくてはならない。それは、「生産手段からの自由」ということです。要は、労働者は、生産手段を持たないということです。資本主義の下では、労働者は自分の労働力しか売るものがない状態にならないといけない。
ところが、労働者が生産手段を持たず、資本家だけが持つということは、今度は物象的・限定的な関係のレベルに「搾取」や「自由の否定」が入り込んでくる可能性を産みます。生産手段を持っている人間と持たない人間がいるとき、持っている方が圧倒的に優位です。
だから労働者は、せっかく人格的な部分で_つまり物象的な関係の外部で_自由になっても、生産手段を持っていないがために、物象的関係の内部で搾取されてしまうわけです。」