読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

「正義」を考える  生きづらさと向き合う社会学

「<抑圧されたものの回帰>
マルクス主義は、自由で平等な商品交換の形をとった資本と賃労働の間の関係には、実は搾取が隠れている、というわけです。マルクス主義者が、「商品の物神化」とか「疎外」とかいった概念で問題にしたことは、このことに関係しています。(略)


「商品の物神化」とは何か?大学のテストでは「人と人の関係が物と物の関係として現れてしまうこと」と書けば満点がもらえます。(略)


人情を無視して、物と物との交換だけが幅を利かせている。そういうのが物神化の典型的な状況です。どうしてそうなるかというと、労働力が商品に転化・外化するからですね。商品になれば、それは市場で取引される価値を持つ。商品は善意で作られるのではなくて、市場のために作られるようになる。そこで、物神化という現象が起きるわけです。


その上で物象的なレベルでは搾取が起きる。人間は人格的なレベルでは自由で平等だといっても、それはほとんど空虚である。(略)


マルクス主義のこうした論理を、あえてフロイトの言葉に翻訳すれば、これは典型的な「抑圧されたものの回帰」です。(略)


これと同じように、人格的・非限定的な関係のレベルでは、物神崇拝が抑圧されたり、排除されたりする(つまり、もはや労働者は資本家を神格化していない)。しかし、抑圧された物神崇拝は、今度は、物象的・限定的な関係のレベルで_つまり商品関係のレベルで_出現する。まるで、人格的関係のレベルで物神化が小さくなればなるほど、逆に、物象的関係のレベルでの物神化が強くなるかのようです。」




「<形式的自由の実質的意義>
たとえ形式にすぎないとしても、人間が解放されるためには、まずは形式的な自由への自覚が必要です。(略)


実際、この形式的な自由や平等の観念に訴えて、少なくともリベラリズムにとっては都合のいい制度的な改革がたくさんなされてきました。(略)



ここで言いたいのは、カントやデカルトの哲学は抽象的で高尚ですが、その高尚さを説得力あるものにする社会的リアリティがあったということです。それこそが、市場経済です。つまり、カントは市場経済を正当化しようと思って、超越論的自我といっているわけではない。(略)



しかし、社会関係の様態が、限定的・物象的関係と非限定的・人格的関係にきっちりと分けられ、非限定的・人格的関係においては、どんなに形式的であれ、自由で平等な主体としての立場を担保した上で、物象的な面だけで功利的な取引をする。


そういう社会的なリアリティがまずあって、それを哲学的に洗練させて表現すると、コギトや超越論的自我などという難しい概念を使った議論が生み出され、説得力を持つようにもなるのです。」