読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

「正義」を考える  生きづらさと向き合う社会学

「4.分断される労働者階級
<シンボリック・アナリストと周辺労働者>
以上を熱湯に置いた時、現代の資本主義の下ではどんなことが起きるか、ということを説明しておきます。(略)


結論的に言えば、シンボリック・アナリストというのは、一般的知性の私的所有権の内側に入ることができた者たちです。(略)


周辺的な労働者というのは、一般的知性から疎外された人たち、その所有権のお零れに与ることもことも出来なかった人たちです。現代の資本主義が、一般的知性の囲い込みによって利潤を得るようになっている以上、労働者階級の二極化は必然です。」



<ライフスタイルと生活様式における二極化>
(略)まず、シンボリック・アナリストの中にいる人。彼らに典型的なイデオロギーは何かと言うと、ポストモダン多文化主義ですね。能力は人種や民族には関係ないとか、セクシャル・オリエンテーションには何の偏見もない、といったことです。(略)



対して、周辺労働者の典型的なイデオロギーは何か。これは、国際的に見ればはっきりしますけれども、第三世界のほとんどの周辺労働者たちの中で優位になるのが、ある種の宗教的原理主義や、エスナショナリズムです。日本でも、周辺労働者的な精神が屈折すると、ネット右翼に近づく傾向があるというイメージがあります。(略)



いずれにしても、現代の資本主義のもとでは、労働者階級が二極化し、リベラルな多文化主義ポピュリズム的なものが、それぞれのイデオロギーとして突出してくる。(略)」



「<空白化した普遍性への代理物>
労働者階級は二極化し、両者の間では、まったく対話が成り立たないように見えます。(略)


多文化主義的でリベラルな知的労働者は、大抵、周辺労働者に固有とされるポピュリズム原理主義に強烈な反感を持っている。周辺労働者たちは大抵、リベラルな「左翼」を嫌っている。(略)


まず多文化主義多文化主義から出てくる相対主義というのは、普遍的な価値や正義が何であるかを積極的には言わないままに、普遍性を指向したときに出てくるものでしょう。多文化主義というのは、普遍的なものが欠けているということに対する補償なのです。


それに対して、周辺的労働者がコミットする原理主義エスナショナリズムのほうはもう少し複雑です。(略)彼らは、普遍性をことさらに拒否する。普遍性を標榜しているどのような価値や概念も、欺瞞であるとして、拒否する。その意識的な拒否をあからさまに示すために、あえて、何かに原理主義的に、あるいはナショナリスティックにコミットしてみせるわけです。



しかし、普遍性を僭称するどのような価値や概念も贋物に見えるのは、実は、まさに本当の普遍性を要求しているからでしょう。とすれば、原理主義エスナショナリズムポピュリズムなどは、ことさらに普遍性を拒否して見せる、そのアイロニカルな態度において、逆に普遍性を指向していると考えられる。


このように、両陣営のイデオロギーは、どちらも空虚になった普遍性を何とか埋めようとしている(そして失敗している)のです。両者は、異なる方向から、同じ空虚を目指している。一方は、断念という身振り(多文化主義)で、他方は、より強い拒否う姿勢(原理主義ナショナリズム)で、逆に、普遍性を指向しているのです。僕には、そのように見えます。

だから、逆に言うと、どちらにおいても、失われた普遍性を本当は取り返したいという無意識の欲求が機能しているのかもしれません。」


〇 実はどちらも普遍性を指向しているという指摘、なるほど~と思いました。


「<なぜ「プロジェクトX」に感動するのか>
ここまでの流れに今の話を位置づけてみます。第一章で物語が機能しなくなっている状況を、現代社会の一つの徴候として考えました。なぜ物語が機能しなくなるのか?その究極の原因は、普遍的なるものの喪失ではないか。


物語の重要な特徴は、目的論的構造です。(略)
逆に言うと、何が普遍的な妥当性を有する価値であるかが不可視で、更にはまったく空虚な時には、物語はうまく機能しない。いや、そもそも物語は成り立ちません。(略)


プロジェクトX」という番組は、一種のノスタルジーとして人気を博していた。現代にはないものが、過去に、高度成長期の日本にあったように、現代のわれわれには見える。(略)


まとめておきましょう。現代の資本主義というのは、必然的に労働者階級の内に格差を生むようなメカニズムを内蔵させている。


それぞれの階級に典型的なイデオロギーを図式的にとらえてみると、どちらも普遍性の欠如に対する反作用の産物であることがわかります。逆に言うと、両者どちらも本来、普遍的なもの、普遍的な説得力を有する価値を欲していると見なすことができます。」