読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

「正義」を考える  生きづらさと向き合う社会学

「3 人は運命を変えられるか
<物語としての歴史>
(略)こうした展開は、必然的に歴史の問題へとわれわれの考察を導いていきます。歴史こそ物語の中の物語だからです。(略)


ですから、人は、まさに歴史という物語の中で、「私は何ものか」を規定されます。」


「しかし、物語の困難とは、歴史の困難です。有意義な目的へと、つまり普遍的な価値を帯びた目的へと収束していく過程としての歴史を描くことができない。このとき、歴史はどのような様相を持つようになるのでしょうか?」

〇 「物語の困難とは、歴史の困難」という言葉で、私の中でずっとくすぶり続けている問題を思い出しました。
山本七平の「現人神の創作者たち」という本の中に、日本にはユダヤの「聖書」、中国の「史書」にあたるような、国が正式に認めているような歴史書がない、というようなことが書かれていたと思います。

史書には、必ずある一定の価値判断が求められる。でも、日本という国では、それが出来ない、というような記述があったように記憶しています。「古文」と言うのでしょうか、現代文ではない漢文のような文章がたくさん載っていて、もう二度と読みたくない、と思うような難しい本でした(>_<)。

こちらに、とてもきちんと紹介されていますので、是非、読んでみて下さい。)

だとしたら、物語の困難さは、既にもうこの時点で始まっていたことになるのでは?と思うのですが。


「<歴史に対するライプニッツ的態度>
(略)このように、過去によって選択肢だけは与えられており、われわれは、常に、われわれの「目的」との相関で、最も望ましい(とその時点で判断した)項目を選択して歴史を作って行く。以上が歴史についてのごく常識的な考え方です。


僕はこういう歴史観の中にある選択のやり方を「ライプニッツ的選択」と呼んでおきたいんですね。(略)


神が世界を創造した。ところで、神はどうやって世界を創ったか。神はまず世界を創るにあたって、可能な世界を全部調べてみた。かなりたくさんあったのではないかと想像しますが、神にとってはたくさんあった所で大変な事ではない。そして、いろいろ調べてみて、一番よい世界を選んだ。これがライプニッツの考えでした。これと同じことを歴史に応用するのがライプニッツ的態度です。(略)


ライプニッツの工夫>
(略)ともかくもう一回整理すると、歴史の中には過去に規定された有限な選択肢があり、その中から常にベストなものを未来に向けて選択していく。ベストというのは、未来に設定されている目的との関係で決まって来る。これがライプニッツ的な歴史に対する態度です。


しかし、僕の考えでは、これではダメなんです。どこがダメかと言うと、われわれはすでに、何が歴史の目的なのかが自明ではない世界を生きているからです。


物語の困難とは、われわれが、歴史の終極的な目的について、積極的なイメージを持つことができない、ということです。(略)


われわれは今や、ライプニッツ的態度で歴史に臨むことができないんですね。


ベルリンの壁崩壊_偶有性から必然性の発生>
そこで別の考えを提示します。まず、きわめて自明な前提にチャレンジしておきたい。自明な前提というのは、過去は確定しているということです。(略)


しかし、壁が崩れた瞬間に、それが実は可能だったことになるんです。つまり、過去が変わる。もっと厳密に言えば、過去の様相が、過去において何があり得たかということが変わるわけですね。具体的に言うと、11月9日の夜になって初めて、実はベルリンの壁が壊れる可能性が以前からあったということになるわけです。


その前までは、過去においてその可能性はあり得なかった。だから、後に起きたことによって、過去の様相が変わるという構造になっている。われわれは普通、選択することで未来が変わると思っています。しかし、未来よりんも過去が劇的に変わるような選択こそが本当の選択なんです。(略)



まさしく偶然のつながりの中でそういうことが起きるわけですが、ひとたび起きてしまえば、それは必然であり、宿命のプロセスだったかのように見えてくる。(略)


ヘーゲルの「理性の狡知」というのは、ほんとうは、こういう現象なんですね。偶有的な出来事が、事後的には必然のようにしか見えない、ということです。



<裏返しの終末論>
(略)ということは、次のことを意味しているのではないでしょうか。われわれは、宿命そのものを、必然そのものを選択する自由を持っているということ、これです。(略)


ここから歴史に対する態度について、最後の結論に向かっていきます。ジャン=ピエール・デュピュイというフランスの政治哲学者の著書に、まさしくこの問題を扱っているものがある。(略)


デュピュイは、主に、津波などの自然災害とかエコロジカル・クライシスを念頭に置いていますが、しかし、資本主義のクライシスでも何でもいい。こういうものに人はどのように対処すべきかを、彼は非常に抽象的なレベルで考えている。そしてそこには、歴史という前提についての深い洞察があると思うんです。


これから言うことのポイントは、人は宿命自体を選ぶことができるということです。


1.まずデュピュイは、未来において、大戦争が起きてしまったと考える。

2.ということは、その未来を現在とする時点において、その破局迄の過程が、必然不可避だったと知覚されているということです。(略)


3.ここでさきほど確認した論理が効いてきます。偶有的な出来事を通じて、必然的な過程が遡及的に構成されるということは、その必然的な過程、宿命的なプロセス自体を、自由に選択し得るものとしてとらえることができることだ、このように述べました。


したがって、未来に想定した破局の位置から見ると、次のように言えるはずです。すなわち、その(未来に想定された)破局に至る宿命自体が、われわれの実際の現在の_未来の破局にとっての過去の_自由な選択の所産と見なすことができる、と。



4.ところで、「自由な選択」であるということは、現在、我々は別様にも選択できる、ということです。(略)

以上がデュピュイが書いていることです。僕は、これは、たいへん深い洞察を含んでと思います。(略)


しかし、われわれは、どこに向かうべきかについての展望はないとしても、何を回避えきか、どこに向かってはならないかということについての、消極的・否定的な目的ならば持っています。例えば地球生態系の全体的な破局は避けるべき事です。(略)


このとき、今述べたような1~4の過程を通じて、自由を行使し、その破局を避けるように選択すればよいのです。僕は、これを、「裏返しの終末論」と呼びたい。わざと、終末(最後の審判)が到来してしまったと想定することを媒介にして、逆に、その終末が回避されるように、と構想されている終末論だからです。」