読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

私の中の日本軍 下 (精神的里心と感覚的里心)

〇 山本七平著「私の中の日本軍 下」を読み始めました。
こちら(私の中の日本軍 上)の続きです。
 
先日、やっとNHK[100分 de 名著」山岡昇平の「野火」を見ました。
(野火という本は読んでいません。山岡昇平の他の本も読んでいません。)
かなり以前に録画しておいたものです。
その中で、山岡氏の「戦争を知らない人間は半分は子供である」という言葉が
紹介されていました。
 
本当にそうなのだろうなぁ、と思いました。だから、戦争は何度も何度も繰り返されるのだろう、と思います。
 
知らないからこそする、知っていたら、誰がこんなことをするか!!という、
戦争を知っている人の強いメッセージを感じます。
 
そして、それと同じ想いを、この山本七平氏にも感じます。
 
豊橋の第二陸軍予備士官学校を出て原隊の近衛野砲兵連隊に帰り、ほんの短期間だが観測の教官をしていた頃には、もう敗色は歴然としており、毎日のようにあわただしく動員令が下り、
 
 
招集され編成されすぐ戦地へと送られて行く兵士たちが、入れ替わり立ちかわり、入って来ては去って行って、連隊そのものがまるで「動員用一時宿舎」のようになっていた。」
 
 
 
「私はつとめて切り口上でいう。「自分はF見習士官と同室の山本と申します。F見習士官はすでに転属され当隊にはおられません。ご家族の方が面会に来られたらこの私物を手渡してくれと自分に依頼されました」と言ってフロシキ包みを丸テーブルの上におき「自分は勤務がありますので(これは噓)、これで失礼させていただきます」と言って、敬礼をし、そして、すぐに部屋を出てしまおうとするのだが_
 
そうはいかない。
母親は、一瞬おびえたような顔になり、椅子から少し腰をうかせて「アノ…」という。この「アノ…」を言われると、もう足が動かなくなる。思わず「ハイ」と答える。
 
 
「アノ…」「ハイ」「ア、アノ…」「ハイ」。相手の顔が驚愕から恐怖に変わって行く。事態がのみこめてきたのだ。
「それで、それで、どこへ、どの部隊へ」「存じません」「いつ、たちましたので」「軍機ですので申しあがられません」。相手はすがりつくように私を見る。「どなたにお願いすれば消息がわかりましょうか」「唯今のところ、たとえ連隊長にお会いになられましても、消息を知ることも、本人と連絡されることも不可能と存じます。
 
 
しかし、一応、動員完了・編成終了となり、事態が落ち着きましたら、F見習士官から直接にお宅に連絡があることと存じます」
この言葉は、建前からいえば嘘ではない。軍事郵便制度があり、野戦郵便局もある。軍機にふれない限り、故国の家族と連絡がとれることになってはいる。しかし、この時点では、この言葉は実質的には嘘であった。
 
 
すべての者が、このようにして故国を去った。そして結局は音信不通であり、その多くは、永久に音信不通になってしまった。
 
 
 
復員船が港につくたびに、桟橋にかけつけて、もしやわが子が帰って来はしないかと、そこに立ち尽くす老母の話を聞くたびに、私はこの日のことを思い出す。彼女たちに残されていた唯一の希望_というより「ワラをつかむような気持」で待っていることは、ある日、不意に軍事郵便ハガキが舞い込んで来はしないか、ということだけであった。
 
 
しかしそれは永久に来なかった。そして本人も帰って来なかった。そして、その状態はこの日にはじまり、最後の引揚船までつづいたわけであった。」
 
 
 
 
「「本当に捧げ銃をしていいものがあるとしたら、あの後ろ姿だけですなあ」とこの兵士はしみじみと言った。そしてそこには、単に、兵士独特の母神崇拝とだけでは言い切れないものも何かあったような気もする。」
 
 
 
「そしてこれが発作的ともいえる「里心」となり、時には全く原因不明の夢遊病のような逃亡にもなった。そして、どう考えてみても、この「里心」と言われた病的ともいえる状態を生ずる原因は、ただ一つで_それは「超強度のホームシックである」という診断以外にはないと私は考えざるをえない。
 
 
そしてその表れ方、いわば「症状」には二種類あったと思う。その一つは「精神的」であり、もう一つは「感覚的」であったとでもいえようか。」
 
 
 
「M少尉は、この老母への心配が、この原因不明の逃亡の原因であることを知った。そしてある日、その兵士をつれて私のところに来て、私がバギオに出張するとき、野戦郵便局で、自分の月給を彼の老母に送金してほしいといった。わざわざその兵士を連れて来たことは、彼を安心さすためであったろう。私は感動した。そして私も出そうといった。」
 
 
「結局、ひとのことを考えているような顔をし、恩にまで着せながら、その心底では、たとえ無意識であっても、自分のことしか考えていない。それが普通であり、普段はどんなきれいごとを並べていても、危機に直面すれば、はっきりそれが露呈する。戦場ではそれをいやというほど見せつけられる。
 
 
それだけに、私はM少尉の言葉に感動した。彼が最後までそれを言わず、相手の苦しみの原因を聞きだし、それを何とか少しでも軽減してやろうとしていたからである。
実際「満腹の人間に飢えている者の苦しみは理解できない」のである。これは収容所で骨の髄まで達するほど思い知らされたが、このときは立場が逆転した意味で、私も、何度も彼を空家から探し出し、誰にも何もいわずM少尉に引き渡して、この兵士には親切にしてやっているつもりで、実は何もわかっていなかったし、わかろうともしていなかった。」
 
 
 
「日本軍では、兵士の書簡の検閲は、鬼よりこわい人事係准尉の仕事であった。従って、軍事機密に触れない限り、たとえ何が書いてあっても、兵士のプライバシーには干渉しない、というわけにはいかない。第一日本軍のみならず当時の日本人に_否おそらく今でも_プライバシーなどという概念はない。(略)
 
 
内地の舞台に関する限り、外部から来た書簡は、封を切られることなく、人事係准尉から直接手渡されることになっていたが、准尉が必要と感じた時、勝手に封を切って中を読んでしまうことは、公然と行われていた。」
 
 
 
「これと比べると、米英の書簡は、外形的には同じでも内容的には全く別であったらしい。少なくとも第一次大戦までは、書簡の検閲は従軍司祭と従軍牧師の仕事で、将校はタッチすることを許されなかったそうである。
これはおそらく、プライバシー尊重と懺悔という伝統から出たものであろう。」
 
 
〇 私は思うのですが…
欧米人にだって、色々な人がいるでしょう。でも、少なくとも、国家としては、「人工的な本能」によって、「物語が続くようにしよう」としているように、見えます。
 
つまり、神(イエス)の教え=互いに愛し合いなさい、を戦争の最中でも、
無視しようとはしなかった。
もちろん、現実には、色々あったでしょうし、戦争をするという時点で、もう既に、
その教えに反しているとも言えるのですが、それでも、そんな中でも、
それぞれの兵士が「大事に扱われている」という物語を
続けようとしていた、ということに、感心します。
 
先日まで読んでいた「正義を考える」の中で、現代は、物語が成り立たない時代になっている、とされていました。
でも、少なくとも欧米諸国ではまだ、一応、民主主義という物語は信じられているようです。
言論の自由があり、表現の自由があり、皆で意見を出し合い、公正で暮らしやすい良い社会を作りましょうという物語は、今も続いています。
 
でも、日本ではどうでしょう。時の総理大臣が、公然と嘘をつき、
官僚に様々な犯罪を犯させながら、司法にまで手をまわし、その罪を無いことにする。自分の都合で、権力を使い、様々なルールも勝手に変えていく。しかも、皆がそれをしょうがない、と諦めて容認していく。
 
そうなった時、民主主義という物語も、法治国家という物語も、一気に壊れて、もうそれ以上、物語は続かなくなります。
そんなことが繰り返し起こったら、もう、私たちは、サルと同じ、力の強いものが弱い者を虐げる社会しか作れないのだ。人生は虚しい、苦しい、生まれてこなければよかった、という物語しか、信じなくなるでしょう。
 
サピエンス全史 上」の文章をもう一度、引用します。
 
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それとは対照的に、想像上の秩序は常に崩壊の危険を孕んでいる。なぜならそれは神話に依存しており、神話は人々が信じなくなった途端に消えてなくなってしまうからだ。想像上の秩序を保護するには、懸命に努力し続けることが欠かせない。
 
 
そうした努力の一部は、暴力や強制という形を取る。軍隊、警察、裁判所、監獄は、想像上の秩序に即して行動するよう人々を強制するために、休むことなく働いている。(略)1860年にアメリカ国民の過半数が、アフリカ人奴隷は人間であり、したがって自由という権利を享受してしかるべきだと結論した時、南部諸州を同意させるには、血なまぐさい内戦を必要とした。」
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「効力を持つような物語を語るのは楽ではない。難しいのは、物語を語ること自体ではなく、あらゆる人を納得させ、誰からも信じてもらうことだ。歴史の大半は、どうやって膨大な数の人を納得させ、神、あるいは国民、あるいは有限責任会社にまつわる特定の物語を彼らに信じてもらうかという問題を軸に展開してきた。」
 
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