読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

私の中の日本軍 下 (戦場で盗んだ一枚のハガキ)

「当時のフィリピンは_今でもそうらしいが_超富豪と超貧民しかいない国であった。中産階級というものがない。従って日本のように中産階級用の施設は一切ない。そこで、こういう金持用の施設はあくまでも超富豪用のものだから、その贅沢さは、
日本の典型的な中産階級の一人である私を、ただただ唖然とさせた。(略)


軍がこういう施設を接収して利用することを、非常に憤慨し、「軍人は質素を旨とすべしとの御勅諭に反し、かつ国軍の伝統、「質実剛健」を失わせ、軍紀を弛緩させる。師団長以下、ジャングル陣地の仮設小屋で、兵と起居を共にすべきだ」と主張するマジメ将校も多かった。


一理ある。その通りかも知れぬ。しかし私はこういう主張にいつも釈然としなかった。そして内心で呟いた。「そう言ったって、陣地の後方のジャングルに師団長宿舎や所属家屋、司令部用宿舎を作るとなれば、結局兵隊は余分の重労働で苦労がますだけだ、つまるところ、そういう主張をする人も、杖をつかわにゃ歩けないほどツルツルに滑るあの伐開路で、材木や砲弾をかつぐということが、どんなに苦しいことか知らないから言えることなのだろう」と。」


「これと比べれば、運送屋のバリオの方が確かに生活環境は良かったが、ここも水がなかった。カガヤン川まで行けば水はいくらでもあるのだが、さて、それを運ぶ労力がない。こういう毎日を送っていると、その不潔感と不快感は耐え難いほどひどくなるか、というと、案外平気になってしまうのである。人間にある、不思議な適応力であろう。精神的な面の自堕落にも、これに似た点があるのかも知れない。」



「私はむしろ一般の兵站宿舎にとまりたかったが、それは許されなかった。従ってやむなく、ホテルの玄関で部下のS軍曹や当番兵と別れ、一人でロビーに入るわけであった。こういう感じになったのも、一つには私は軍隊内の事務や事務連絡に全く自信も経験もなかったので、仲の良いS軍曹と別々になるのが心細かったのでもあろう。

私は無能であった。従ってすべてS軍曹の指示通りにしていた。私にとっては部隊長から「コレをやれ」と命ぜられることも、S軍曹から、「コレをやっていただきます」と言われることも同じであった。こういった制度は、すべて、今でも私には不思議でならない。私などを将校にするより、S軍曹を将校にした方が、すべてにおいてよかったはずである。」



「垢が一番酷いのが足の裏で、層になって角質化したように見える。この垢が溶け出すと、それが一体どうなるか。経験のない人には想像がつかないだろうが、それはヌラヌラになり、すべるので、危なくて浴槽に立てなくなるのである。


こすってもこすってもこのヌラヌラはなくならない。そのうち湯があまりよごれたので、栓を抜いて排水孔から落そうとするのだが、垢が異物除けの網にたまって水がはけなくなる。そこで指を入れて網目から垢をスリ落すようにして水を抜き、また、コックをにへって湯を入れる_これを三度ぐらいくりかえすと、どうやら人心地がついてくるのであった。



垢をこすり落すとバスからあがり、そのままふわふわのベッドにとびこんで寝てしまう_急に身体的なあらゆる緊張から解放され、同時に「一人になった」という奇妙な安心感、またまる二日の危険なトラックの旅から出た疲れが一気に出て、吸い込まれるように眠りに落ちてしまうのが常であった。」



「一度アイスクリームをご馳走になったことがある。これは私が終戦前に食べた最後のアイスクリームだが、一つ十五円ときいて度胆を抜かれた。少尉の本俸が六十円の頃だから、今で言えば一万五千円以上であろうか。


「ドルの垂れ流し」などと平気で言っている人がいるが、戦争中の日本の「軍票のたれ流し」は、到底この比ではない。東南アジアの反日感情の話をきくたびに、私は、日本が自分がやったことは棚上げにして、ドルをためこみながら、その以後処理を完全にやろうとせずに、それでいて平然と他を批判している点にもその原因があるのではないかと時々思う。


林景明氏の「台湾処分と日本人」を読むと、その記述の底に「お前たちは、自分がやって来たことを、相手が弱ければ平然と棚上げしてしかも他を批判し、相手が強ければ手のひらをかえしたように無条件で土下座している」という、強い不信感があると思う。」



「当時は、部隊はまだソラノという町に駐留しており、民家に分宿していたから、ジャングル内の「最低の飯場」のような状態だったわけではない。しかし、別の面では「最低の飯場」以下の状態を脱したところだったのは事実である。


それは輸送船である。その細部は省略するが、上陸してからもひどかった。マニラのンばしにあがるとすぐ、日射病で一兵士が倒れ心臓麻痺で死んだ。部隊の犠牲者第一号である。


炎天下の桟橋に、奴隷船以下の状態で運ばれてきて衰弱しきった兵士をさらしておいて、これは一体どうなるかとこちらは気が気でないのだが、どこへ連絡しても、何一つわからないのである。」

〇 ここで言われている「奴隷船」の状況については、「日本はなぜ敗れるのか」に書かれています。

「坂の中腹の店の前に着物姿の若い女性の後姿が見えた時、私は電気にかけられたように震えて足がとまった。胸がドキドキして息苦しくなった。全く思いがけない姿であり、まるで自分が夢を見ているような気になった。


何か、女神のようにも見え、幻のようにも見え、それ以上近寄ったら、スーッと消えてしまうような気もした。女性という感じで見たのではない_そこに見えたのは内地であった。家であり、家族であり、過ぎ去った平和な日々であった。」

〇 読みながら、切なくなります。この時、山本氏は二十代の青年です。
今の私の感覚から見ると、まだ子供っぽい大人です。


「前述のように、フィリピンは中産階級のいない国である。その中にわずかに例外的なそれを求めるなら、それは、華僑とバギオの日本人商人とトリンダットの日本人農民であったろう。この人たちは、移民でなく棄民であった。日本政府は彼らに何一つしなかった。彼らは自ら犠牲多いベンゲット道の開削にあたり、その結果、バギオとその郊外に入植し、独力で今日を築いた人々であった。(略)


彼らは日本人でありながら、初めから終りまで、ただただ「大日本帝国」に苦しめられただけであった。戦争は、地道な努力の積み重ねである彼らの持つすべてを奪った。(略)彼らの多くはジャングルで死に、かろうじて生き永らえた人々は、すべてを奪われて内地に送還された。(略)


沖縄問題がジャーナリズムで華やかに取り上げられた時、沖縄だけが被害者だといった議論が盛んに新聞にのった_しかし、本当の最大の被害者とは、実は、私は被害者だという声をあげる力もない人々であろう。声を出せる人々は、少なくとも、最大の被害者ではない。私はさまざまな「保障問題」や、それに支払われる膨大な金額を聞くたびに、この人々のことを思い起こす。そして「公平」とは一体何であろうか、と思う。」